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日記を書くこと(その3)

そういえば、日記を書くというのは「何を書かないのか」ってことを決定する作業なのかもしれない、ともおもう。前に書いたハリエットの話を読んだ後10年以上たっても覚えていたのは、たぶん昔日記に書いていたからで、自分の記憶に残すものを、日記を書く、って作業の中で選別しているところがあるのかもしれない。つまり、いまみたいに、いかにも適当にキーボードを打っているつもりでいるこの瞬間にも、俺は「何を書かないのか」ひたすらに決定付けているわけだ。

何を書くか、っていうのは明らかに「これについて書きたい、言いたい」という主張であるけれど、何を書かないか、っていうのもそれと同じくらい大きな主張なはずだ。まあ、あたりまえのことだけれども、なんだかそれってちょっとふしぎな感じがする。

なんてことをかんがえたのは、今日、中上健次の『夢の力』というエッセイ集を読んでいたからで、そこに収録された「心の滴」に、日記を書くことについての文章があったのだ。中上がニューヨークで1ヵ月ほど独り暮らしをしていたときのこと、ふだんは日記など書く習慣はないのに、このときばかりは日記をつけていたのだという。中上はその、自身の日記を引用した後に、こう書いている。

やった事の大半が抜け落ちてもいる。映画をよくみたし、ミュージカルも、ピープショップなる25セント入れれば三分ほど、好みのポルノを見られる店に入ったことも抜け落ちている。マリファナ、コケイン、マッシュルームを売るアイルランド系ユダヤ人に出会った事も書いていない。なんでもみてやろう、という気はあるし、実際臆せず、ハーレムの中をうろうろして、好んでアフリカ風の食い物屋に行ったが、自分の書いたものをこう書き写してみると、日記とは、<書かないために書く>ものだと思うのである。

<書くために書く>日記とは、つまり探検記や、探訪記に似てくる。/<書くために書く>日記とは、文学の一つの原型でもある。

本当を書こうと思えば思うほど嘘がまじるから、心の滴のようなものをしたたらすか、それとも、いっそ嘘を承知で書き込んでいくかである。(p.133)

<書くために書く>のではなく、<書かないために書く>。人の日記を読んでいておもしろいのは、書かないために書いているなかで、どこかでぽろっとその人の心の滴のようなものがしたたり落ちるのが見えるような、そんな気がするからなのかもしれない。なかなか人には(あるいは自分にも)見せないような部分、隠そう隠そうとおもっている部分をきっとみんなどこかに持っていて、でもそういう部分が一瞬だけ崩れ落ちて見えるような瞬間があるようにおもえるから、なのかもしれない。

そんなことをかんがえて、自分のエントリーをいくつか読み返してみたのだけど、ダメだなーとおもった。この日記は本や映画の感想が大半になっているけれど、自分のそれを読んでも、読んだり見たりしていたそのときのこころの動きが感じられないっていうか。ダメだなー俺、とおもいつつも、でもまあ、やっぱり、もっと書いていくしかないかなー、ともおもう。

そうそう、ブコウスキーは『死をポケットに入れて』で、こんなことを書いていた。

ものを書く時は、すらすらと書かなければならない。稚拙でとりとめのない文章になってしまうかもしれないが、言葉がすらすらと流れ出ているのであれば、書く喜びから生まれる勢いがすべてを輝かせてくれる。慎重に書かれた文章は死んだ文章だ。(p.122)

あー、そうかもしれない。いや、ほんと、そうだよなー、とおもう。

夢の力 (講談社文芸文庫) 死をポケットに入れて (河出文庫)


日記を書くこと(その2)

俺が日記的なものをつけるようになったのは、たしか小学校3年だか4年くらい、時期はあんまり定かじゃないんだけど、でもどうして書きはじめたのかってことはよく覚えていて、それは『スパイになりたいハリエットのいじめ解決法』って本を読んだのがきっかけなのだった。いまでも、その児童文学(だとおもう)のストーリーは、なんとなく記憶に残っている。

 *

主人公のハリエットって女の子(小学生)は、どんなときでもノートを持ち歩いていて――食事中でも、学校の授業中でも、とにかくいつでも――そこに身の回りのいっさいがっさいを描写し、それを上から目線で批評していく、って感じのキャラクターだったとおもう。ハリエットの将来の目標は「スパイになること」なので、身の回りの人々や出来事をよくよく観察して描写し、そのための力を日々磨いているのだ。彼女はわりと性格のひねた感じの子でもあって、たとえば近所のおばさんとか、クラスメイトの行動をよく観察するなかで、その悪口やイタいところなんかも、たっぷりとノートに書いている。

で、ある日のこと、学校でハリエットはノートをなくしちゃうわけ。盗まれた、のだったかも。まあとにかく、それでクラスのみんなにハリエットのノートの中身が知れわたってしまう。ノートにありとあらゆることを描写し、自分の身の回りの人々をコケにしまくっていたハリエットだったけれど、ノートを奪われてすっかり弱体化してしまう。なにしろ、ほとんどの人の、“その人にだけは言ってはいけないこと”みたいなのがズバズバ書いてあるノートだ。ハリエットはクラスでいじめられることになった。数少ないともだちも、ノートに書かれた彼らに対する悪評、悪口をみるにつれ、ハリエットから離れていってしまう。

結局、ハリエットはまたそのノートを使って(たぶん、ノートに「ハリエットくらい注意深く観察していることでしか見えてこないような、クラスメイトのちょっといいところ」、みたいなのを書いて)いじめを解決、よかったよかったー、って話だったとおもう。いや、もしかしたらぜんぜん違うかもだけど、とりあえず俺の記憶ではそんな感じ。

 *

とにかく、それを読んで、いいじゃんノート!俺もノート書こう!とおもって日記(みたいなもの)をつけはじめたのだった。いじめ解決、の部分の話をいまいち覚えてないところからして、そこはたぶん当時読んだときもあまり印象に残らなかったんだとおもう。ただ、いろんなことをノートに書いてとっておく、ってことにやたらと惹かれたのだけはよく覚えている。もちろん、ハリエットのノートはスパイノートであって日記ではなかったのだけど、起こったいろいろな出来事を記録しておく、って点ではまあ同じようなものだ。俺には、ハリエットみたいにがんがん何でもノートにメモっていく熱心さはなかったし、何も書かない時期だってやっぱりあったけど、なんだかんだで何年も日記を書き続け、10何冊かのノートを埋めていたのだった。

のだった、って過去形なのは、今はもうノートには何も書いていないからで、なんで止めたのかっていうと、ある時自分のノートを読み返してみたところ、まったく緊張感を持たずにだらだらと弛緩しきった文章が、とにかくおもしろくなさすぎたのだった。あと、やっぱ過去の自分って、なんかいろいろと気に食わないしね…。といっても、まあ、今だってこうしてキーボードを叩いているわけで、懲りてない、わけなんだけど。ひとつだけ、ノートに書いていたときと違うところがあるとしたら、今は日記ではありつつも、人に見られること、をどこかで、ちょっとだけ意識して書いている、ってことだとはおもう(これを読んでくださっている希少な方々、ありがとうございます!!)。まあ、だからって、いま、とくに緊張感を持って書いているわけでもないし、たぶん、しばらくして読み返したら、自分にはとても耐え難いものにもおもえてくるんだろうけど…。

って、なんだか話がずれてしまった。いったい何が日記を書かせるのか。日記を書くことへと人を駆り立てるものはなにか。あるいは、日記でもそうじゃなくても、何かそんなようなものを書くことにどんな意味があるのか。それはわからない。いや、もちろん、いろいろと理由をつけることはできる。今日おもったことを忘れないため、とか、文章力をつけるため、とか、誰かに(あるいは、未来の自分に)自分のかんがえたことを伝えるため、とか、まあ何でもいい。でも、そういう理に落ちる理由だけで人の行動の動機が説明できるわけはなくて、そういう説明では汲み取れない要素はいくらでもあるはずだ。というか、自分のきもちがそんなに簡単な理由で説明されることには、やっぱりどこか抵抗がある。ハリエットの本を読んで、へえーなんかいいじゃん、俺も日記書こう!っておもったきもち、そのこころの動きみたいなものは、~だから、っていうかたちでは説明しきれないはず、っていうか。あ、なんかそれって、すごくあたりまえのことか…。うーん、わからないけど、たぶん、簡単にその意味を説明したり解説できたりするものなんて、たいしておもしろいものとは言えなくて、だから、日記っていう目的のよくわからないものが妙におもしろいのかもしれない、とはおもう。

Harriet the Spy スパイになりたいハリエットのいじめ解決法 (世界の子どもライブラリー)


日記を書くこと

修理に修理を重ねて使ってきたパソコンが、3日くらい前にどうやら完全に壊れてしまって、でも今日新しいやつを手に入れたので(お父さんお母さんありがとう!)、またこうして日記を書いているわけなんだけど、この3日間というもの、日記を書きたい欲、みたいなものが頭の中で溢れかえるようで。なんだか、自分がそんな欲求を持っていたってことにびっくりした。ただ、じゃあなんで日記を書きたいんだろう、ってかんがえると、なかなかはっきりとした答えを出すのはむずかしい。ブログなんかに文章を書く、って行為に動機を求めようとするなら、自己表現欲求とか、承認欲求とか、だいたいそんなあたりに落ち着くことが多いんじゃないかとはおもうのだけど…。

チェコ出身のフランス作家、ミラン・クンデラは、『笑いと忘却の書』の第四部「失われた手紙」で、こんなことを書いている。

「私たちが本を書くのは、自分の子供に関心を抱いてもらえないからなのだ。見知らぬ世間の人々に訴えるのは、自分の妻に話しても、彼女が耳を塞いでしまうからなのである。」

もちろん、日記やブログは本ではないので、ちょっと違うかもしれないけど、このきもち自体はよくわかる。俺はたとえば、磯崎憲一郎とかエイモス・チュツオーラの話なんかは、まわりの友達に話せない。いや、話せない訳じゃないけど、でも話したところで…、っていうきもちはやっぱりあって、だからこうやってはてなに日記と称して感想を書いたりしているわけだ。

でも、何かを書きたい、何かを記録に残したい、っていうきもちは、誰かに話したい、聞いてもらいたい、っていうただそれだけが理由なわけじゃないんじゃないかなー、ともおもう。だって、日記って、誰かに読ませるものじゃないじゃん、もともとは。

笑いと忘却の書


わかる/わからない

いつだったか、友達のだれかが、「わたし映画ってよくわかんないんだよねー。ストーリーとか、何が言いたいのかとか、よくわかんないまま2時間も座って見てるのって苦痛ー」みたいな話をしていて。そのときは、よくわかんないってどういうことだろう、ってぼんやりと感じただけだったけど、後からよくかんがえてみると、これってなかなかおもしろい問題を孕んでるなーっておもった。

映画がわかる、っていうのはどういうことなのか。人があるものに対して下す、わかる/わからない、って評価はいったいなんなのか。保坂和志は、『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』のなかでこんなことを書いている。

「わかる」とは何なのか?/色や形が言葉に置き換えられる、ということだ。もっと言えば、色や形のままでは百も二百もあった要素が、“現代社会”なり“戦争の悲惨さ”なりという、絵の外にある既成の概念と結びつく。

「わかる」ためには、たぶん短い言葉に縮められるだけではダメで、作品の外にある言葉や概念と結びつく必要がある。そのとき、作品は作品それ自体でなく、読み解く対象、つまり媒介となってしまう。(p.17)

この文脈は絵について語っているところなので、色や形、ってことばが出てきているけど、これはもちろん絵にかぎらず、どんな芸術にも当てはめてかんがえられることだろう。ここで述べられている、あるものが「わかる」、というのは簡単に言ってしまえば、それを解釈できる、ってことだ。だから、わからない、というのはつまり解釈のしようがない、保坂のことばを借りれば、作品中の要素が作品の外にある既成の概念と結びつけられない、ということになるだろう。

わりと一般に、「ある対象がわかるということ」イコール「それをことばで、筋道立てて説明できること」、なんていう風にかんがえられがちなんじゃないかとおもうのだけど、辞書的な知識に関してはともかく、はたしてそれだけが芸術のわかりかたなのだろうか。もちろん、というか、たぶん、そうではないはずだ。それは、言語に多くを頼らない、要素ひとつひとつを取り出すことが困難な芸術のありかたについてかんがえてみればわかりやすいかも知れない。たとえば、音楽とか。ことばを用いてある音楽を説明することのむずかしさっていうのは、誰しもこころあたりがあるんじゃないかとおもう。ことばをいくら積み重ねていったところで、けっして表現し得ないものが世界にはたくさんある。もちろん、だからといって、ことばの可能性をいたずらに矮小化してしまってもしょうがないのだけど、言語という限りのある体系のなかに組み込まれることでこぼれ落ちてしまう要素なんていくらでもある、ってことはしっかり覚えておくべきだとおもう。

なんだか話がずれてしまったけど、そういうわけで、映画がわかる/わからない、っていうのは映画そのものをたのしむこととはまた別の問題なんじゃないか、っておもう。いや、こうやって言っちゃうとすごく素朴だし、当たり前なんだけど。「~がわかる」ということばでわかった気になっているものは、その対象そのものではあり得ないし、「~がわかる」って言いかたをするようなものじゃなくても、じっさいわかっていることっていうのは、たくさんあるんじゃないかなー、ともおもう。

まあ、わからない、って言い方で映画がたのしめない、ってことを言っていたのかもしれないけど、そうだとしたら、重要になってくるのは、やっぱりいろんなことをインプットすることだろう。映画そのものをたくさん見ることもそうだし(あ、でもそれは映画が嫌いだったらむりか!)、人から映画についての話を聞くことだっておおきい。どんなところがおもしろかった、とかって話を聞くことで、新しい視野がひらけて、それをおもしろがれるようになる、なんてことはよくあるとおもう。あ、でもそれって、単に、わかりかた、のバリエーションを広げるって作業なのかもしれないな…。そうかんがえると、なにかがわかった気になる、ってことがきもちのなかでどれだけ大きな役割を果たしているのかがわかるような気もする。って、俺、また、わかる、なんて使っちゃってるけど。

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた


きびしい裁判官

先日感想を書いた、ジョン・クラカワーの『荒野へ』に、

両親のことになると、子どもはとにかくきびしい裁判官になりがちで、あまり温情的な処置をとろうとしない。(p.198)

父は平凡な人間だった。それも、とんでもなく平凡な人間であることがわかったのだ。私にはとても許せなかった。(p.238)

なんて文章があって、あー、そうなんだよ。と、こころのなかで深くうなずいたのだった。両親のまえでは、いつも自分は子供になっている。って、いや、もともと子供なんだからそれはあたりまえなんだけど、両親に対するときって、この歳になっても自分は“子供”で親は“親”である、っていうどこか絶対的な権力構造のある状況のなかに、知らないうちに入り込んでいるような――じっさいはそうでなかったとしても――きぶんになる。

それで、そういう状況のなかで親の欠点なんかを見つけると、必要以上にそれが気になって、許せなくなるのだ。親も自分も同じような(大して変わりのない)人間である、っていう事実から、知らず目を背けてしまっている、っていうか。そして、そんなことをかんがえちゃう自分って、やっぱりコドモなんだなー、とかおもったり。自分がどうしようもなく親の子供だ、っていうのが事実としてあるからこそ、コドモ扱いされることに反発をおぼえもするし、また逆に、親にも完璧さ(というか、ある種の理想化された像、みたいなやつ)を求めてしまうわけで。まあ、そんなことを正月、実家に帰っていたときにおもったのだった。

荒野へ (集英社文庫)


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