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Kindle Paperwhiteのこと

Kindle Paperwhite

Kindle Paperwhiteを買ってから半年ほど経ったので、ここに所感を書き残しておくことにする。Kindleの「いいところ」については、どこでも簡単に確認できるはずなので、このエントリでは、俺にとって「いまいちなところ」を中心に書いておこうとおもう。

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いいところ

  • 画面が見やすい
  • これは素晴らしい。暗闇のなかでも、日向でも、どんな角度でもよく見える。そして、目が疲れない。ふつうの本と比べても遜色ないし、利用シーンによっては、むしろこっちの方が優れているケースも多いだろう。(たとえば、寝るまえ、電気を落とした部屋のなかででも、Kindleでなら問題なく本が読める。iPhoneとかみたいに眩しくないから、疲れないのだ。)

  • 軽い、薄い
  • 片手でまったく問題なく持てる。スーツの内ポケットに入れられるくらいの軽さと薄さ。仰向けに寝転がって使っても大丈夫。

  • 本屋に行かなくても、本が(ときには安く)買える
  • Kindleストアでは、新刊もよくセールになっている。

  • 電池の持ちがいい
  • 電池の残量を気にしないで使えるレベル。こういうところがしっかりしているのはいい。

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いまいちなところ

  • 全体的に動作がもっさり
  • とにかくこれがいちばんイケてないところ!電子ペーパー端末なので、ページ切り替えの速度が遅いのは仕方のないこととは言え、これがいちばんのストレスだ。ふつうに1ページ1ページ本を読み進めていくぶんにはとくに問題ないのだけど、特定のページヘの移動がめんどうなのがきつい。たとえば、本の感想を書くときなんて、目次なりブックマークなりを開いて、そこに移動したりするわけだけど、いちいち画面遷移に時間がかかるのものだから、いらいらさせられてしまうのだ。こんなにもっさりしてるんだったら、ハイライトとかブックマークの機能を使うより、手元にメモしておいたほうが効率的なのでは…っておもえることもあるくらい。

  • ページ数の表示がない(本によってはある)
  • これも結構厳しい。Kindleでは、ふつうの紙の本についているページ番号の代わりに「位置No.」という機能で全体の分量が表わされる。これは、端末の画面サイズやフォントのサイズに依存しないでページ数を表したい(=1ページに収まる字数をフレキシブルにしたい)、ってことが理由なのだろうけど、はっきり言ってこのNo.というやつがぜんぜん直感的な数値でないので、まるで参考にならないのだ。(「270ページ」って言われれば、どのくらいの分量かわかるけれど、「No.1430」なんて言われても、ピンとこないでしょう?)この「位置No.」を実際のページ番号に対応させる機能をつけてくれたっていいじゃんなー、とおもう。(あと、ページ数がわからないと、アカデミックなマーケットでは活用しにくいのでは?って気もする。)

  • 自分が本全体のどのあたりを読んでいるか、ってことが直感的にわかりにくい
  • これは、Kindleを使っていてはじめて意識した、本のメリットだ。こういう話はたしかこの辺りに書いてあったよね…ってことがおぼろげであれ、頭に残っているのって、わりと重要であるらしい。本の内容が物理的なページの厚みなんかと結びつけられることで、記憶しやすくなったりするのかもしれない。あと、紙の本みたいにぱらぱらーっとめくって見ることができないのも予想外に辛かった。数ページ前に書かれてたことが気になったりしたときなんて、不便だなーとおもう。

  • Kindleストアがしょぼい
  • まだまだ新刊はビジネス書とかエンタメ系が中心って印象がある。まあ、これは仕方がないことだ。個人的には、古典の新訳とかがいっぱい入ってくれるとうれしいんだけどなー。

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そういうわけで、俺がKindle Paperwhiteを利用するのは、ほとんどの場合ベッドのなか、就寝前の10分くらい、という感じになっている。ふだんから本を常に持ち歩いているので(持ち歩いていないと不安になる)、わざわざ外出中にKindle端末(あるいはiPhoneのKindleアプリ)を使う理由があまりないのだ。しっかりノートを取ったりするのにはまだまだ紙の本の方が便利だと感じられるので、Kindleで読むのも、軽めの本、個人的に重要性の低い本が中心。買って失敗だったとはおもわないけれど、あまりうまく使えていないなー、というところだ。


“丸刈り謝罪メッセージビデオ”のこと

昨日あたりから、”AKB48のメンバーの女の子が、グループのルールであるところの「恋愛禁止」を破ったことの反省として、自ら頭を丸刈りにして、涙ながらに「ごめんなさい」と言うビデオ”の件がひどく話題になっている。AKBとかアイドルグループについての知識がほとんどない俺にとっても、この映像はちょっと衝撃的だったし、かんがえさせられるところもあったので、ここに所感を記しておくことにする。

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まず、映像を見たときの感想は、”丸刈り謝罪メッセージビデオ”だなんて、まったく、なんて醜悪なんだろう!ってものだった。こうしてひとりの女性を”見せもの”みたいにして辱めを与え、注目を集めようってやり方は、ビジネスの方法としてきわめて下品だし、人を不快にさせるものだ、とおもったのだった。

もちろん、人気アイドルであるところの彼女のふるまいには、かなりの量の金が紐づけられているはずで、だから「運営側」としてはじゅうぶんな計算を行った上で――たとえば、彼女の復活劇のプランを立てたり、精神的なダメージをケアするような方策なんかをじゅうぶんに用意したりした上で――こういう映像をネット上にアップしているのだろうとは想像される。それに、「運営側」の”ビジネスモデル”としては、こうして「不快だ」って意見が多数表明されること、多くの感想が述べられること自体が、この”事件”の注目度を高め、ひいてはグループの存在感を一層大きなものにすることになる、ってことまでがおり込み済みでもあるのだろう。

それはわかる。わかるけれど、でも、こんなやり口を推し進めている人たちは、いったいどういう感覚でいるんだろう?って、いやな気分になったのだった。「いやー、AKBってほんとに阿漕な商売ですね、欲望に直接的に訴えかける感じがやらしいですねー」(←俺はいままでこの程度の感覚だった)で済まされるレベルを、このできごとは、超えてしまっているように感じられたのだった。

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いやな気分になりながらも、落ち着いてかんがえてみると、次第に、”こんなやり口を推し進めている人たち”っていうのは、特定の個人や特定の組織、特定のファン層というよりは、大衆のこと、すなわち我々みんなのことであると理解するべきなのではないか、とおもわないではいられなくなってくる。だって、”こんなやり口”がまかり通るのも、AKB的な商法がこれほど成功しているのも、結局のところ、それらの消費者が存在しているからなのであり、また、そういった消費者の存在を許容している社会が存在するからなのだ。

つまり、じっさいに丸刈りを決意し実行したのが彼女自身であったとしても(あるいは、「運営側」の人間であったとしても)、その行為は、いわゆる”大衆の欲望”的なものを内面化した結果として行われたはずだ、くらいのことは言えるのではないか。そして、たとえば、「こうやって話題作りをすれば、みんなそれに飛びつくんでしょ」とかっていう意見というのは、別に「運営側」に限らない、我々みんなの意見である、とかんがえなくてはいけないのではないか。そんな風にもおもえてきたのだった。

でも、そうだとすれば、なぜこの映像は、これほどまでに不快な気持ちを呼び起こすのか?このできごとは、自分たちの欲望が(たとえ無意識的にであれ)もたらした結果なのではないのか??

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そこまでかんがえたところで、ちょうど最近読んでいる、ドストエフスキーの『白痴』に、エリザヴェータ夫人のこんな台詞があったのをおもい出した。

「世間が誘惑に負けた娘をいじめると、あんたたちはそんな世間を野蛮で非人情だと考える。でももし世間を非人情だと認めるなら、そんな世間のせいで娘がさぞかし辛い思いをしてきただろうということも分かるはずじゃないか。もしその辛さが分かるなら、どうしてわざわざそんな娘のことを記事にして世間の前に引っぱり出し、しかも娘をいじめるななどと主張するんだね?正気の沙汰じゃない!虚栄心の塊さ!」(『白痴 2』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 河出文庫 p.227)

「世間を野蛮で非人情だと認め」、「そんな世間のせいで娘がさぞかし辛い思いをしてきただろうということも分かるはず」であるにも関わらず、人は「わざわざそんな娘のことを記事にして世間の前に引っぱり出し、しかも娘をいじめるななどと主張」したくなってしまう。人間とは、そういった浅ましい欲望を持った生きものだ、というわけだ。まったくうんざりするようなことだけれど、”丸刈り謝罪メッセージビデオ”の話題の拡散の仕方を見てみれば、そして、自分自身がこの話題に対して取っている行動――まさにいま、こうしてブログにアップするための文章をせっせと書いている――を顧みてみれば、やっぱりこれはある程度本当のことであるようにおもえる。

自分自身がエリザヴェータ夫人の言っているような人間、「虚栄心の塊」であることを改めておもい知らされるからこそ、そして、自らの無意識下にある欲望の後ろ暗さをよくよく見せつけられるような気分になるからこそ、”丸刈り謝罪メッセージビデオ”は人をひどく不快な気分にさせるのかもしれない。そして、それについて何かを(たとえば、自己弁護的な何か、自分の倫理観を再確認するための何かを)言わずにはいられないような気持ちにさせるのかもしれない。そんなようなことを、俺はかんがえたりしたのだった。


日記を書くこと(その5)

ここのところ、ブログの更新をすっかりさぼってしまっていた。理由は大きくふたつあって、ひとつは、小説や映画や音楽にいまいち感動できなくなってしまっていたから、もうひとつは、そういう微妙な感想をここに書き残すことに抵抗を覚えていたからだ。情けないことだが、自分の感受性が鈍ってきていることをひしひしと感じていた俺は、そいつと直面すること、そいつと相対することに恐れを感じ、すっかりびびってしまっていたというわけだ。まったく、とんだたにし野郎だと言わなくてはならない。

でも、きょうこんなことを改めて書いているのは、最近かんがえが変わったからだ。つまり、どんなにしょぼい感想であっても、どんなに手垢にまみれた言葉であっても、アウトプットしないよりはするほうがずっとましなんだ、ってようやく本当におもえるようになったのだ。いや、もちろん、これはあたりまえのことだ。言葉を紡ごうとする努力なしに思考が発展することなどあり得ないし、感受性というのは、使わなければ使わないぶんだけ、鈍り、くすんでいってしまう、しごく繊細で儚いやつなのだ。ただ、そんな自明すぎるくらいにに自明なことを、俺はようやく実感できたのだった。

そんなプチ”転回”があったきっかけについてはまた別の機会に書くとして、きょうはもうずいぶん前に書いた自分のメモ(Evernoteから発掘した)を以下に掲載しておこうとおもう。メモというか、ほとんどエントリ用の体裁にまで書き上げていたのに、結局アップするのをやめてしまっていたものだ。3年も前に書いた、こんな力まかせの文章が、ふしぎといまの気分にはぴったりくる。

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2009年9月14日

きょうでこの日記を書き始めてから3年目に入る。2年のあいだに、俺は大学の3年と4年をなんとか終わらせて会社に入り、ドイツ語の辞書をねめつける代わりにPCの画面とにらめっこするようになった。引っ越しもしたし、毎日のように会っていた友人と何か月も連絡を取らなくなったり、付き合っていた女の子と別れたり、煙草の本数が増えたり、いつの間にかテレビをぜんぜん見なくなったりもした。バイオリンをやめてベースをはじめたり、夜型の生活をやめて朝早く起きるようにもなった。…って、おもわずここ数カ月の変化のことばかり書いてしまったけど、好きな音楽や本や映画や、もののかんがえかたなんかは、もっと長い時間のなかで少しずつ変わってきているんじゃないかな、とおもう。

そんないろいろを日記ってかたちで残しておくのは、やっぱりおもしろいな、なんてひさびさに感じている。日記に何かを書き残すっていうのは、何を書くか、そして何を書かないかを選別することだ、という話を以前に書いたけれど、それに加えて、日記を書くことっていうのは、生活を少しだけ恣意的に変化させようとすることでもあるかもしれない、とかおもったりもしているのだ。

リチャード・パワーズは『舞踏会へ向かう三人の農夫』において、こんな風に書いている。

一つひとつの行為を通して、我々は自分の伝記を書く。私が下す決断一つひとつが、それ自体のために下されるだけでなく、私のような人間がこういう場合どのような道を選びそうかを、私自身や他人に示すために下されるのでもあるのだ。過去の自分のすべての決断や経験をふり返ってみるとき、私はそれらをつねに、何らかの伝記的全体にまとめ上げようとしている。自分自身に向かって、ひとつの主題、ひとつの連続性を捏造してみせようとしている。そうやって私が捏造する連続性が、今度は私の新しい決断に影響を与え、それに基づいて為された新しい行為一つひとつがかつての連続性を構成し直す。自分を創造することと、自分を説明することとは、並行して、分かちがたく進んでいく。個人の気質とは、自分自身に注釈を加える営みそのものだ。(p.238)

ここで、パワーズは比喩として「伝記を書く」と言っているのだけれど、じっさいに伝記/日記を書くことだって、やっぱり絶えず捏造され続ける「自分自身の連続性」なるものを組み直すことでもある。自分の生活や思考について書くことは、自分の生活や思考に注釈を加え、それらをそのようなものとして作り上げようとすることと不可分になっているわけだ。

それは、べつに日記の内容を捏造するとか、自分に嘘をつくとかっていう意味じゃない。日記を書いている人はよく感じることだとおもうのだけど、本当のこと、自分が感じたそのままを書く、っていうのはなかなかむずかしいもので、それはたぶん言葉というものが基本的に近似値でしかないからなんだろうとおもう。

近似値である言葉を正確に使って書こうとすればするほど、「自分が感じたそのまま」から遠ざかっていってしまうようにおもえたりするわけだけど、でも、じつはそうやって言葉によってまとまった形を作ろうとする、組み直そうとするその行為のなかではじめて、「自分が感じたそのまま」が自分のなかに存在しはじめる、っていうところはあるんじゃないだろうか。そして、いくら書いても「自分が感じたそのまま」にはたどり着けないなー、という気持ちが「自分が感じたそのまま」を外側から少しずつ強固な、リアルなものにしていくんじゃないだろうか。

パワーズはこう続けている。

だとすれば記憶とは、消え去った出来事をうしろ向きに取り戻すことだけではなく、前に向けて送り出すことでもあるはずだ。思い出された地点から、未来の、それに対応する状況下の瞬間すべてに向けて送り出すことでもあるはずだ。

新しい経験がひとつ訪れるたびに、我々が自分の過去の連続性を組み直すとするなら、おぼろげな、いまだ経験されざる過去から送られてくるメッセージ一つひとつが、未来を組み直せという挑発であるはずだ。観察によって変わらない行為はない。観察者を巻き込む行為を伴わない観察はない。何のきっかけもなしに認識の湧いてくる瞬間一つひとつが、凡庸な日常世界へ戻っていくよう私に呼びかける。捏造と観察から成る、決まりきった日々の暮らしを続けるよう、何であれ自分の手で為しうる仕事に手を汚すよう、呼びかけるのだ。(p.241)

記憶とは、未来において何かを変えようというメモである、っていうのがパワーズの主張だ。だとすれば、自分の記憶を書きとめる日記とは、そんなメモを自分なりにまとめた、自分を組み替えていくためのツールであると言えるかもしれない。いや、俺は日記が何かの役に立つとか、日記をつけていると得するよとか、そういう話をしたいわけじゃない。そうではなくて、日々のできごとや思考や感情の揺れ動きや、そんないろいろを記録に残していくこと、「自分が感じたそのまま」をなんとか掴もうとして書くこと、それが止められないのは、それがおもしろいのは、文字として記録に残すことで自分を組み替えたい、記憶を組み直したいってどこかでかんがえているからなのかもな…なんてことをおもったのだ。

だとすれば、誰か他の人が書いた日記から「心の滴」みたいなものが読み取れたように感じたとき、おもわずぐっときてしまうのもよくわかる気がする。だってそれは、自分を組み替えたい、未来を組み直したいっていうおもいは、きっと誰にとっても切実なものに違いないのだから。

舞踏会へ向かう三人の農夫


日記を読むこと

きょうは大晦日。2010年最後の日。年明け前にやっておくべきことと言えば大掃除だよね…ってことで、はてなアンテナの整理をしようとおもい立ったのだけど、いつの間にやら更新されなくなった日記の多いこと多いこと!俺のはてなアンテナには120ちょいのブログが登録されているのだけど、その内の40くらいはもう半年以上更新されておらず、さらに30くらいはごくたまにしか更新されない日記になっていることがわかったのだった。

たしかに、ここ2年くらい”twitterに流れていってそのままブログを書くのをやめちゃう人”が急増している気がしていたけど、まさかこれほどとはね…って、ちょっとさびしい気持ちになってしまった。twitterもいいけどさ、やっぱり俺はつぶやきより長い文章の方が好きだな。

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いったい何がたのしくて他人の日記なんて読むのか?他人の日記で何を読みたいのか?ということは、以前にも何度か書いたことがある気がする。俺の場合は、自分と同じように本や映画や音楽の話をしている人の日記がとくに好きで、「今日はお寿司を食べに行ってきましたー。サーモンらぶ」みたいな日常のいろいろを書いている日記(や、そういうのもぜんぜんきらいではないのだけど…)よりは、ついつい感想・レビュー系のものばかりを読んでしまいがちなのだけど、そこにどんなものを求めているかっていうと、それはきっと、日記の記述者と対象の作品とがいったいどんな関係性にあるのか、ということなんじゃないか、って気がする。

小説や映画で描かれる物語やイメージにしても、音楽におけるメロディやグル―ヴにしても、ある対象について言葉にしようとしたところで、その対象物そのものを表現することはどうしたって不可能だ。物語や音楽は、読んだり見たり聴いたりしているその時間の流れのなかでだけ存在できるもので、人はあくまでも爾後に、それらについての感想を述べることしかできない。誰がどのように述べる言葉であっても、それは対象そのもの、対象のすべてではありえず、せいぜいちょっとした補足――あるいは単なる蛇足――である他ないわけだ。まあ、あたりまえのことだけれども。

だから、小説や映画や音楽について触れられた言葉に対して求めるべくは、その言葉を発した人が、どんな風に対象と向き合ったのか、そこでどんなことをかんがえたのか、ってことになる。少なくとも、俺はそんな風におもっている。そうして、記述者の数ぶんの方向から、無数に存在する作品を見つめていくことで、いつか自分もまともな記述ができるようになるかもしれない、作品が持つふしぎな魅力のその源泉に、少しでも近づけるようになるかもしない、なんてかんがえたりもしているのだ。

もちろん、この忙しいときにどうして寝る時間を削って読んだり聴いたりしているんだろう俺は?っておもうことはある(そういう気持ちが強い時期には、この日記も更新されない…)。しかも、ときどきではなく、わりとしょっちゅうある。でも、そんな疑問を解き明かすためには、きっともっと読んだり聴いたりするしかないのだろうともおもう。読んで、見て、聴いて、人の言葉を聞いて、少し言葉にして。そうすることで、このいっけん無意味な――少なくとも、換金可能性については極めて低い――ものたちが、ごくまれに放つ、眩しいくらいの輝きに一歩ずつ近づいていくしかないのだろう。そんなことを、ひさびさにアンテナを整理しながらかんがえたのだった。

 *

…って、こんなことを書いているうちにすっかり年を越してしまった!もう2011年ですね!こんな僻地にわざわざお越し下さっているみなさま、ときどき星やコメントをつけてくださったりする数少ないみなさま、明けましておめでとうございます。そしていつもありがとうございます。今年がみなさまにとって、おもわずジャンプしたくなっちゃうくらい素晴らしくハッピーな一年になりますように!!


グリックのこと

この頃、亡くなってしまった人のことをよくかんがえる。それは、いまみたいな会社と家とを往復するばかりの生活をしていたらすぐ老人になっちゃいそうだ、っておもうからかもしれないし、いかにも秋らしい澄んだ水色の空に感傷的な気分になってしまうから、あるいはただちょっとだけ疲れているせいなのかもしれない。ただ、いなくなってしまった誰かのことをかんがえるとき、いつも同時にシマリスのことをおもい出してしまう。今日はそのことについて書くことにする。

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以前、といってももう15年くらいも前のこと、小学校の3年か4年のころに、シマリスを飼っていたことがある。うちはずっとマンション住まいだったから犬とか猫とかを飼うことはもちろんできなくて、でも俺も妹もなにか動物を飼いたい、ちいさくてかわいい生き物といっしょに暮らしてみたい、っていう欲はなんとなくずっと持っていて、散々親にねだった挙句に、なにかと交換条件で――テストで100点を何回取ったらとか、バイオリンの課題曲を終わらせたらとか、水泳のバタフライの級を合格したらとか、たぶんそんなところだったろう――ようやく飼うことを許してもらえたのだった。ハムスターでなくシマリスだったのは、なにしろリスのほうがずっとかわいいじゃんね!というおもいがあったからで、それは当時シマリスが主人公の物語がすごく好きだったからだ。

とにかくそういうわけで、もうすぐ春が訪れそうな、でもまだまだ結構冷える、って季節のある日曜の午後に、そのシマリスはグリックという名前を与えられて我が家のリビングの住人となった。彼と過ごした時間はあまりにも短くて、いまとなっては記憶の断片がいくつか残っているばかりなのだけど、はじめて家に来たとき、小さく丸くなって震えているようで病気じゃないかと心配したこと、毛はひどくふわふわとしていて触ると気持ちよかったこと、でもいかにもやわらかなその尻尾に手を伸ばそうとするとものすごく嫌そうにしたこと、図鑑で見たどんなシマリスよりもきりっと引き締まった顔をしていて、なんてイケメンなんだおまえは(そんな言い回しは当時なかっただろうけれど)なんておもったこと、籠から外に出されると手に乗ったり肩に乗ったりなんて媚びたことはまったくせず、ひたすら家じゅうを駆け回っては散らかしまくるワイルドな性格だったこと、その後戸棚の後ろの狭いスペースにもぐり込んでなかなか出てこなかったこと、そんなことがなんとなくおもい出される。

グリックについておもい出せるまともな記憶はあともうひとつだけで、それは強い日差しがマンションの2階の部屋にまでぎらぎらと降り注ぐ、とてもとても暑い日のことだ。俺は公文だか日能研だかの夏期講習に行っていて、夕方に家に帰ってきた。母さんと妹は買い物にでも出かけているのか家におらず、ただいまーってリビングに入ったときの静けさを、自分の声が無駄に響く感じを、妙にリアルに覚えている。リビングはしんと静まり返っていて、いやいやそれはおかしい、って気づいたのは、あっついなー、アイス食べよーって冷蔵庫のドアに手をかけたときだった。心臓をひんやりとした手で撫でられたような、内側からぶるっとくる漠然とした恐ろしさを感じて、ああこれが冷汗をかくってことなのか、俺はじめて冷汗がどういうものなのかわかったよ、なんておもったような気がするけど、これはさすがに記憶の捏造なんじゃないかって気もする。冷蔵庫の前を離れ、部屋の隅にある籠をのぞいてみる。おもった通り、グリックはいない。というか、そこには何もなかった。ひまわりの種やらエサ箱やら、ちょっとした遊具やら、そういったこまごましたシマリスの住居を構成するパーツの一切がなくなっていて、ただ空っぽなのだった。

強く覚えているシーンはそのくらいで、それから後の記憶はぼやけてしまっている。俺は、神様的な何かにお願いをしようとしたかもしれないし――ああ神様お願いします、何も悪いことが起こっていませんように、とか――、あるいはとくに何をかんがえるでもなく、いつも通りにスーファミを箱から出して電源を入れていたのかもしれない。いまおもい出せるのは、日が沈みきった頃に母さんと妹が泣きながら帰ってきて、グリちゃんがしんじゃったー、いまアスレチックの奥の森に埋めてきたー、って言ったこと、そして俺はずいぶん冷静にその事態を受け入れた、ってことくらいだ。彼は暑さにやられてしまったらしい。

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グリックのことをおもい出すたびに、悲しいというより、ちょっと後ろめたいような気分になる。それは彼の死を看取れなかったから、というだけではなくて、死の知らせにそうかやっぱり、とおもってしまったことに、彼のために少しの涙も流すことがなかったことに、そして彼の死を体の底から実感できなかったくせにそれをあっさりと受け入れてしまったことに、罪悪感に似たようなものを感じているのかもしれないとおもう。そうして、それから年を経るごとに時折訪れる誰かの死にも、まるで向き合えていないんじゃないか、って気までしているのだ。いや、もちろん、そんな自分の不感症をシマリスのせいにするなんてばかげているのはわかっている。ばかげているどころか、卑怯であるようにもおもう。でもやっぱり、それはなんていうかちょっと恐ろしいことでもあって、だから俺はいなくなった人のことばかりかんがえているのかな、なんて最近おもったりもするのだ。

グリックの冒険 (岩波少年文庫)


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