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『夏への扉』/ロバート・A・ハインライン

夏への扉 (ハヤカワ文庫 SF (345))

ロバート・A・ハインライン『夏への扉』を読んだ。ひとことでいって、とても爽やかな小説。古きよきアメリカの進歩史観と超ポジティブなエナジーが全編を貫いており、ちょっと引いてしまいそうになるが、でもそこがこの小説のよさでもある。最近気がついたのだけれど、無邪気さや衒いのなさというものに俺はかなり弱いらしいのです。だからこの小説そのものというより、その背景にある無垢でまっすぐな感じが素敵だとおもった。

こういう作品と小学生のころに出会ったりして、人はSFをすきになっていくのだろうか。自分の小学生時代に愛読していた唯一のSFはダグラス・アダムズ『銀河ヒッチハイクガイド』(ちょっと前に映画にもなった。いい感じでした)だった。地球が宇宙バイパスだかの建設のために木っ端微塵にされて、そこから辛くも逃れた主人公が、ともだちのベテルギウス人と銀河をヒッチハイクしていく話。「銀河ヒッチハイクガイド」っていうのは、そんなヒッチハイカーたちの必需品とされる、なんでも載ってる電子図鑑みたいなやつ(音声ガイドつき)で、その記事がなんかいちいちすげーシュールなの。9歳の俺は、そんな設定に心躍らせまくっていたんです。ほんとくだらないスラップスティックだけど、ほんとに何度も読んでいたっけ。

話がずれすぎた。『夏への扉』はシンプルでわかりやすいエンタテインメントとして、まあ、なかなかいいんじゃないかとおもう。ブックオフでなら100円で買えるし。

銀河ヒッチハイク・ガイド (河出文庫)


『オートフィクション』/金原ひとみ

オートフィクション

金原ひとみ『オートフィクション』を読んだ。『アッシュベイビー』ほどの勢いは感じられなかったけど、なかなかたのしい小説だった。今作も、非常にグルーヴ感のある文章で、読者をぐいぐいとひっぱっていく。物語内で主人公が「オートフィクションを書いてください」と依頼されるシーンがあり、それでこの小説自体が主人公の女性作家によって書かれた、22歳から15歳まで過去へさかのぼっていく構成の自伝的小説なのだ、ということが告げられる。読者はもちろん、主人公に実在の作家たる金原ひとみを多少なりとも投影して読んでいくことになる。

ということで構成的に弱冠凝っていたりするのだが、全体的にこれも不安定で分裂症的なモノローグ主体の語りに終始する小説なので、基本的に『アッシュベイビー』とおなじ路線上の作品であるようにおもえた。エログロ描写や下品な言葉づかいは、もはやこの作家のなかではこのレベル(けっこう激しい)が普通なんだろう。切れ味鋭く、頭の回転がはやい感じの文章で、つい声にだしてわらってしまったりする。延々とつづくモノローグが、ほんとうにおもしろいのだ。

すこし引用すると、

「何故私のボールを受け止めないのか。甚だ疑わしい。いや、疑問などではない。私は見ないふりをしているだけだ。本当のところは分かっている。シンには私のボールを受け止める度量がない。あるいは、受け止める気がない。それだけの事だ。そして私は、投げたボールを男に受け止めてもらえない寂しさを受け止める力がないから、それを無視し、何故私のボールを受け止めないのかと不思議がってみせているだけだ。ばかばかしい。どうでも良い事だ……。」(p.46)

こういう語りがひたすらつづく。「私を受け止めて」「私の世界に生きて」ほしい、という圧倒的な同一性の欲望が絶えずあるけれど、それは決して満たされることはなく、つねに主人公は煩悶の状態にある。そして、各章はその同一性の幻想が完全にうち砕かれるところで終わる。妄想的で純化された感情に溺れる自己と、それを傍から冷静に突きはなして眺めているもうひとつの自己との乖離っぷりや、それらが互いを排除せずに、絶えず間をゆれ動いていくという分裂症的な語りがおもしろい。という小説として、俺はたのしんで読んだ。

小説としての完成度とか、文章の感覚は『アッシュベイビー』よりもあきらかに洗練されているとおもうけど、やはり『アッシュベイビー』の無防備な勢いのほうがすきだ。まあ、でも、こっちを先に読んでいたらこっちを推したくなるかもしれない、とはおもう。


『ラディカル・オーラル・ヒストリー オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』/保苅実

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これは大学の授業で紹介されて読んだのだけれど、ものすごくいい本だった!かなり興奮しながら読みました。オーラル・ヒストリーっていう歴史学の方法や記憶、語りの問題について書いてあるのだが、著者の保苅実さんの冷静さと情熱とをあわせもったオプティミズムにすっかりやられてしまった。オーラル・ヒストリー(oral history)っていうのは、歴史研究のために、その関係者からインタビューなどの形式で直接話を聞きとり、記録としてまとめること。この本では、そんなオーラル・ヒストリーという歴史の研究方法について、根本的な再考がなされている。保苅がこの本で何度もくりかえし問いかけているのは、歴史とは何であるか、歴史家とはいったい誰のことを指すのか、という問題だ。

いわゆるポストモダン状況においては、歴史とはそもそもナラティヴなものであり、多元的、複数的なものである、といったことがおおく論じられてきた。現在、文化相対主義はもはや当然の了解だといっていい。歴史とはつねに言説的なかたちでしかあらわれ得ないし、歴史叙述は記録者のバイアスを反映したものだ、という見解を否定するものはすくないだろう。

だが、じっさいにアボリジニのオーラル・ヒストリーについて、アカデミックな近代的知であるところの歴史学の文脈でそのまま引きうけることはほとんど不可能である。なぜなら、そこにはいわゆる歴史学にとっての「正しい歴史」には到底うけいれることのできない、「史実」にもとづかない歴史物語(「非論理的、非科学的、超自然的な」)が数おおく存在しているからだ。たとえば、アメリカのケネディ大統領がアボリジニの長老と直接会って、それをきっかけにアボリジニの土地返還要求がおこった。だとか、あるアボリジニの長老が大蛇に依頼して洪水をおこし、牧場を流してしまった。といったエピソードがある。

保苅は、そのような自らにとっての「危険な歴史」を排除しようとする、現代の歴史学の政治性、権力性を批判する。そして、「アボリジニの長老の話」というオーラル・ヒストリーを認めた上で、西洋近代に出自をもつ学術的歴史分析と、アボリジニの歴史実践とのあいだのコミュニケーションの可能性を考察し、両者が共有できる、歴史経験の真摯さ(experimental historical truthfulness)とはどのようなものとしてありうるのかを探求していく。

保苅は、記憶論や神話論の研究者たちのとる姿勢について、彼らは「アボリジニの人々は、ケネディ大統領がグリンジの長老に出会ったと信じている」「…とみなされている」「…とされている」と述べるだけであって、それは結局のところアボリジニの言説を「掬い上げて尊重する」という身振りにすぎない(p.26)、と批判している。彼らは、多元主義をうたい、異文化を尊重する姿勢を見せてはいるけれど、ほんとうは相手の歴史観をうけいれているわけではない。相手の歴史観を排除するわけではないものの、いわば包摂してしまうことで――ああ、あなたはそういうふうに信じているんですね、あなたにとってはそういうものなんですね、というように――自らの歴史観にとって、無害なものに変えてしまおうとする傾向がある。アボリジニの言説をある種のアナロジーや「神話」としてとらえることは、知識関係の不平等にもとづく権力作用の働きに他ならない。単に、マジョリティによって管理されるマイノリティ、という位置づけをおこなうことにすぎないのだ。

もちろん、保苅の主張はよくかんがえれば当然のものだ。人がアナロジーを用いるのは、イメージを豊かにしたり拡散させたりするためではなく、語りをある一定の目的に向かって絞りこむためだ。他者のなんらかの言説についてをアナロジーや、なにかを表象するものとしての神話としてとらえることは単なる一方的な解釈であって、双方向的な理解に結びつくものではない。

保苅は、西洋の歴史家による歴史、アボリジニの人々による歴史、そのさまざまな形態が共に存在する多元的歴史時空を想定する。そしてその内で双方向的なハイブリッド化による、「ギャップごしのコミュニケーション」というものの可能性について模索していく。この、いっけんユートピア的なオプティミズムが熱い。「人が過去を経験する歴史時空というのは、根源的に多元的なので、決して追体験したり理解できないような、決して埋まらないギャップが厳然としてある。(中略)ただ、ギャップはあるけれど、ギャップごしのコミュニケーションは可能なのではないか」(p.27)

ここでなされているのは、歴史の正当性がどのようなものとしてありうるのか、といった考察ではない。むしろ、どのようなコミュニケーションのかたちが可能なのか。いかに共存することができるのか。ということが問題になっている。

保苅はそのようなギャップごしのコミュニケーションとしての歴史学、を従来の参与観察やインタビューの形式にはよらずに、現地の人々とともに歴史実践をしていく、フィールドワーク形式(具体的には、アボリジニの人々と生活を共にし、長老のはなしを聞く)でのオーラル・ヒストリーによって実践する。そしてその結果、「もし私に十分な感受性があり、精霊を信じる環境に育ったなら、私は精霊たちをはっきりと見たことだろう。私が精霊をみたことがないという事実は、私が知覚しないひとつのリアリティに、精霊たちがいないことを意味しない。」(p.196)と明言するほどの地点にまで導かれていくことになる。

アボリジニの語る物語にたいして敬意をあらわしたり、評価したりするだけではなく、そこからさらに一歩踏み込んだ地点で、あらたな歴史のありかたを考察すること。そうすることで、近代の西洋知だけにもとづいた従来の思想や歴史学をぬけだすことができるのだろう。保刈は、西洋的知の内部からアボリジニの言説を分析するのではなく、アボリジニの人々との現地での歴史実践によって、双方向的なコミュニケーションの可能性を生みだした、といえそうである。

だが、他者とともに歴史実践をおこなうことでほんとうの意味で多元的な歴史理解が可能になるのだとすれば、もはや他者に語られることのないできごと、消された歴史といったものは、どのように多元的歴史空間に位置づけることができるのだろうか、という疑問はある。それはオーラル・ヒストリーという歴史研究の方法の限界についての疑問でもある。ただ、もちろん、所謂「歴史的真実」より、「歴史への真摯さ」についてかんがえる姿勢のほうが他者に対してひらかれている、というのはたしかなことだろう。


『アッシュベイビー』/金原ひとみ

アッシュベイビー (集英社文庫)

金原ひとみ『アッシュベイビー』を読んだ。芥川賞をとったときに、『蛇にピアス』を読んで、なんだよ綿矢りさに比べたらありきたりでおもしろくないなあ、とか実に勝手なことをおもっていたのだが、この作品はけっこうすきだった。この小説における金原ひとみの文章は、句読点多め、一文一文はみじかく、風景描写は極小で会話のあいだをモノローグが埋めつくす、というスタイルだ。これらの要素によって読者は「スピーディに読む」ことへと導かれる。

扱われる題材はいっけんなかなかハードだ。でてくる人物はいってみれば変態ばかりだし、幼児虐待や動物虐待もある。だが、そこに描かれているのは、あくまでも人と結びつきたい、というシンプルで切実なきもちに他ならない。そういった意味では、これは道具立ては派手だけれども、普遍的な物語だ。まあ、ありきたり、ともいえる。しかし、この小説のおもしろいところは、読者はその主人公のきもちに感情移入することで同期の欲望を満足させることはできない、という点にある。その原因は、登場人物たちの変な嗜好や下品な言葉遣いにもあるのだろうけど、それよりも主人公の自己が垂れ流されるモノローグと、その垂れ流された自意識をちょっと醒めた目で見るもうひとつの自己の語りがとにかく饒舌なために、あーなんかその感じわかるわー、などとおもったりしても、感情的な自分の位置を確定してしまうことが難しくなっているのだ。

主人公のアヤは、「好きです」とか「殺してほしい」ともうほんとに何度も何度も連発する。連発するのは彼女が口に出していう台詞であったりモノローグでだったりするのだが、そこで彼女はある種の確信をもってそれらのことばを発している(「好きです」「殺してほしい」はこの小説内では同種の意味をもつ)。彼女をそう突き動かすのはひどく歪んではいるだろうがまぎれもなく、「好きです」のきもちなのであって、そのためにいろいろ衝動的に破壊的なことをかんがえるし、実行もする。そうして自分のことも他人のことも傷つけるのだが、それらは結局、絶対的な同一性の願望に端を発するものだ。もちろん、好きな相手との絶対的な同一性というのは幻想にすぎないのであって、アヤの願望が満たされることはないまま小説は終わることになる。そして読者もまた、アヤのきもちへの同期の欲望が完全に満たされることはない。

この小説はアヤの視点からの描写とモノローグに終始するので、文章は軽く、その薄っぺらさや安易さ、スピード感がきわだっている。こうした特徴はふつう、安易な共感をよせつけないのだけど、『アッシュベイビー』の場合は、妄想的な自己とそれを批評する別の自己との絡まりあいや、身体性というモチーフの扱いかたに戦略的な匂いが薄く、無防備に感じられて、その分だけ胸に迫ってくるものがあった。無頓着や陳腐さというものでしか表現できない、切実さや、かなしみがこの小説にはあるようにおもえた。


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