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『ムーミンパパの思い出』/トーベ・ヤンソン

『ムーミンパパの思い出』/トーベ・ヤンソン

「ムーミン童話全集」の三冊目。ムーミンパパが、自らの若かりし頃の思い出を本に書き綴り、子供たちに語って聞かせる…という体裁の物語だ。前作と同様、本作も、細かなエピソードがぶつぶつと連なっている感じで、筋らしい筋というのもないし、登場人物たちの数は多すぎ、まるっきり思いつきで書かれたような、雑多ででたらめな印象のする作品になっている。これは正直、あまりおもしろいとはおもえなかった。

ただ、ムーミン童話においては、その、雑駁で適当で、まるでちゃんとしている気がしない、でもなんだか全体的には自由でハッピー、というような空気感こそが、何にも勝る価値を持っている、ということは言えるのかもしれない。このなんとも適当な雰囲気こそが、この作品のおもしろさだ…というか。

すみきったみどり色の海の底で、砂はくま手でかいたような、こまかいもようをえがいています。岩の上には、ほかほかと日があたっていました。風もないで、もう水平線はきえていました。すべてが明るいすきとおった光につつまれていたのです。
あのころは、世界はとても大きくて、小さなものは、いまよりもっとかわいらしく、小さかったのです。わたしはそのほうがよっぽどすきです。わたしのいう意味がわかりますか。(p.115)

…強く意識していなければ、私たちの世界は時間とともに小さく狭いものに、そして、小さなものはただ小さいだけのものになっていってしまう。だから、ムーミンパパは、過去を振り返り、「あのころ」のでたらめで自由な感覚をおもい起こすことで、現前の世界に新鮮さと豊かさとを取り戻そうとしているのかもしれない。そんな風にかんがえてみると、少しは共感できるかも、という気はした。


『時は乱れて』/フィリップ・K・ディック

『時は乱れて』/フィリップ・K・ディック

ディックの1959年作。かなり初期の作品だけれど、なかなかおもしろく読めた。いかにも普通小説風な描写からスタートしつつも、物語の進行とともに周囲の世界に対する違和感が増大していき、ついには世界そのものが偽りであったことが発覚する…という展開の一作だ。

主人公の中年男、レイグル・ガムは、50年代後半のアメリカ郊外の町で、新聞の懸賞クイズを解き続けることで生活している。物語の序盤では、レイグルや彼が同居する妹夫妻、そのお隣さん一家との交流のようすが淡々と描かれていくのだけれど、この時点では、明らかに特殊に見えるのはレイグルの「懸賞クイズを解き続ける並外れた能力」だけだ。だが、ストーリーが進んでいくにつれて、少しずつ「現実」の裂け目が姿を表してくるようになる。いまある「現実」とは、ほんとうに「現実」なのか?疲労やストレスのせいで、あるいは過去のトラウマ的な何かのせいで、俺の頭はどうかなってしまったのではないか?…という、神経症的な不安が全体に広がっていく。

そうしてその不安が頂点に達したところで、物語は一気に(かなり強引に)SFへと姿を変えてしまう。じつはレイグルたちの暮らす「現実」世界というのは、すべてが作りものの虚構世界であって、彼が毎日必死に行っていたのは、懸賞クイズでも何でもなく、月から発射されるミサイルの到達地点を読み解くためのパターン解析なのだった…ということが明らかにされるのだ。

まあ、ある種お定まりの展開だといっていいだろう。最近読んだ本では、オースン・スコット・カード「エンダーのゲーム」のプロットにもちょっと似ている(エンダーという少年が軍事戦略ゲームを解き続けていくのだけど、それはじつはゲームでもなんでもなく、じっさいに人類を救うための闘いなのだった…って話)。話のオチ自体は真新しいものではないので、本作の読みどころはやはり、ディック独特の、「この世界は何かがおかしい」、「この現実は何かが間違っている」、「いや、そうじゃないのかも。もしかしたら、おかしいのはこの世界でもこの現実でもなくて、俺の頭の方なのかもしれない!そうだとすればすべて辻褄が合うじゃないか!」、といった現実崩壊の感覚ということになるだろう。少なくとも俺にとっては、本作においては、SF要素よりもこうしたパラノイアックな感覚のほうがずっと魅力的だった。

誰も彼も。誰も信じることはできない。彼らはわたしをこのトラックに乗せて送り出し、巡回中の最初のパトロールにつかまるように仕向けた。おそらく、このトラックの後部には、”ソ連のスパイ”とでもいうネオンサインが光っているのだろう。背中に”わたしを蹴飛ばせ”という紙が貼ってあると思いこむような妄想。
そのとおり。わたしは”蹴飛ばせ”サインが背中にとめつけられている人間なのだ。どれほど頑張っても、背中のそのサインを確認できるほど素早く振り返ることはできない。だが、本能は、そのサインが間違いなくそこにあることを告げている。なすべきは、ほかの人々を注意深く観察し、彼らの行動の意味を判定すること。人々が行うことから推量すること。サインがあるかわかるのは、わたしを蹴飛ばすべく列をなしている人々が見えるからだ。(p.201)


『とどめの一撃』/マルグリット・ユルスナール

『とどめの一撃』/マルグリット・ユルスナール

物語の舞台は第一次大戦の終盤、ロシア革命期のバルト海沿岸。反ボルシェビキ小隊のメンバーであるエリックとコンラートは、リガ近くの村のはずれにある古びた館で、コンラートの姉であるソフィーと十数年ぶりに再会する。戦火が迫り来るなか、ソフィーはエリックに思いを寄せるようになるが、エリックはそんなソフィーを疎ましく、むしろ弟の方を好もしく感じてしまう。息詰まるような心理劇の末に、ソフィーは赤軍側に走り、エリックは彼女を自らの手で処刑することになる…。

本作の物語は、エリックの一人称によって「過去の思い出話」として語られていくのだけれど、エリックが自分の内面をストレートに開示することはない。だから、読者は文章――どこまでも硬質で、恐ろしいほどに洗練された文章だ――の背後に存在しているであろう彼の思考や感情というものを想像しながら、ページを繰っていくことになる。作品のプロット自体は、上記のように古典的な悲劇であるので、このややメタフィクショナルな仕掛けがこの小説の読みどころだということになるだろう。

ユルスナール自身による「序」には、このように書かれている。

物語は一人称で書かれ、主人公の口から語られる。私は、これまでしばしばこの手法を用いた。というのもそれは作者の視点を、少なくとも作者による解説を、書物から排除してくれるからであり、自分の生を直視し、多かれ少なかれ誠実に説明しよう、まず第一に思い出そうと試みるひとりの人間の呈示を可能にしてくれるからだ。(p.10)

しかしこのような文学形式の欠点は、他のどんな形式よりも読者の協力を必要とすることである。水を通して眺める事物のように、《私》と称する人物を通して眺められた出来事や人々のゆがみを、読者はみずから正さねばならない。多くの場合、一人称の物語という方策は、こうして自己を語っているとみなされる個人に有利に働く。しかし『とどめの一撃』では逆に、自己を語るさいには避けがたい歪曲が、語り手を犠牲にする形で起こる。エリック・フォン・ローモンのようなタイプの人間は、自己にさからった考え方をするものだ。(p.11)

文面上、エリックの感情というやつはとにかく抑制されまくっているので、彼がソフィーに対して、また、コンラートに対してどのような感情を抱いていたのかということは最後まで明確にはわからない。ただひとつだけ明らかなのは、彼とソフィーが、葛藤と死によって他の誰よりも強く結びつけられることになった、ということだけなのである。

二発目がすべてにけりをつけた。この役目をはたすよう私に求めることによって、彼女は最後の愛の証し、しかもあらゆる証しのなかでもっとも決定的な証しを与えたつもりだったのだ、最初私はそう考えた。しかしその後、彼女は復讐がしたかっただけであり、私に悔いを残そうとしただけだとわかった。その計算はまちがっていなかった。というのも私は時として今なお悔いを覚えるからだ。相手がああいう女では、いつも罠にはまってしまうものだ。(p.155)

 *

そういえば、本作も、先日感想を書いたマキューアン『贖罪』と同じような、「取り返しのつかない罪」に関する物語だと言うことができるかもしれない。エリックの思い出語りは、彼にとって贖罪たり得るものではないし、そもそも彼の場合は、「罪」という意識がどの程度あるのかということさえもはっきりとはしていないのだけれど、過去のある出来事を「物語」として語りたいという欲求のなかには、その出来事をどうにか自分のなかで整理したい、理解したい、処理して落とし所を見つけたい…といった切実な気持ちがあるのだろう、ということは読者にも理解できる。エリックにとっての安らぎというのもまた、語るという行為のなかにしか存在しないのかもしれない。


『赤と黒』/スタンダール(その2)

前回のエントリでは、「ジュリヤンにとって、出世や恋の成就といったものはあくまでも副次的なものであったのかもしれない。彼を突き動かす最も重要な動機というのは、彼の英雄願望、彼の自尊心の充足、彼の上昇志向の満足といったものなのだ」なんてことを書いたのだけれど、先日、二村ヒトシ『すべてはモテるためである』を読んでいて、もうちょっと違う風にかんがえることもできそうだな、とおもった。

ジュリヤンが出会った当初のレーナル夫人やマチルドを落とそうと奮闘するのは、まあ単純な「モテたい」、「出世したい」欲の発露、ジュリヤンの野心と向上心の表れだと言えるだろう。これはわかりやすい。ただ、二村は、「モテたい」という感情について、こんなことを書いている。

「モテたい」=「キモチワルくないと保証されたい」というのは、「恋されたい」ではなくて、本当は「愛されたい」ということだったんじゃないだろうか。(『すべてはモテるためである』/二村ヒトシ 文庫ぎんが堂 p.204)

男にとって(男性社会のなかで)モテる男になりたい!いい女を自由にできる男になりたい!とめざすことは【向上心がある】てなこと、ではある。
そして「おれは愛されたいんだ」などと自ら認めることは、なんだか恥ずかしいことである。
だから男は、自分が「モテたい」というのは「恋されたい」ことなんだと自動的にすり替える。
だが【愛されたい】というのが「自分を肯定してほしい」という欲求だとしたら。(前掲書 p.204)

【モテたい】は「キモチワルくないと保証されたい」ことなんだから、じつは【モテたい人】は愛されていれば充分であって「恋されて、相手を支配する」必要は、ないんじゃないだろうか。
モテた者も、モテをめざす者も、ただ「自分は愛されたいんだ」と認めればいいんじゃないだろうか。(前掲書 p.205)

モテたいというのも、つまるところ承認欲求の一種なのだから、べつに相手に恋されて、相手を支配するような必要はない。そんなことよりも、自分自身を肯定して欲しい、認めて欲しい、というその気持ちを素直に認めてあげる方が先なんじゃないの、ということだ。個人的には、なかなか腑に落ちるというか、納得できる主張である。この二村のかんがえかたを『赤と黒』のプロットに適用してみると、だいたい以下のような感じになるのではないか。

  • 親の愛を知らず、また、自分を守ってくれる社会的な地位も能力も持っていないジュリヤンは、自分を認め、保証してくれる何かを必死に求め続ける。それは二村流に言えば、「自分を肯定してほしい」、「愛されたい」という欲求である。
  • ただ、やっぱり「「おれは愛されたいんだ」などと自ら認めることは、なんだか恥ずかしいこと」であるわけで、ジュリヤンも自分自身のその感情にはなかなか素直に向き合うことができない。
  • 自分の感情を「モテたい」欲、「出世欲」、「支配欲」、「向上心」だと勘違いしたままのジュリヤンは、ついに貴族の娘であるマチルドを落とすことに成功、上層階級への階段に足をかけることになる。しかし、まさにそのタイミングで、昔の女であるレーナル夫人によって、過去のスキャンダルを暴露されてしまう。
  • 己の野望を妨害されたことで頭に血が登った彼は、レーナル夫人に発砲、逮捕・投獄される。だが、そうすることでようやく自分の感情を正確に認識できるようになり、ああ、俺は肯定してもらいたかったんだ、愛されたかったんだ、と気づく…。

前回のエントリでは、『赤と黒』はジュリヤンという青年の野心と成長、挫折の物語である、という読み方をしてみたわけだけれど、上記のように捉えてみると、結構印象が違ってくる。こっちの読み方だと、『赤と黒』の主題は野心というよりも、やはり愛情である(つまり、本作はある種のラブストーリーである)ということになるだろうし、ジュリヤンが自分の選択をまったく後悔することなく死を迎えることができるのは、「自分のエゴやプライドにどこまでも忠実に生き切ったから」というよりも、「自分の弱さやだめさをも受けて入れてくれる、愛というものを本当に知ることができたから」だ、ということになるだろう。どちらが正解ということもとくにないのだろうけれど――というか、どちらもそれなりに適切な読み方だとはおもうけれど――ともあれ、こういった多層性こそが本作が古典たらしめているのね…という感じはする。


『赤と黒』/スタンダール

『赤と黒(上)』/スタンダール 『赤と黒(下)』/スタンダール

『赤と黒』で描かれているのは、極度に利己主義的でプライドが高く、と同時に、異様に強い猜疑心と劣等感の持ち主でもあるという主人公のジュリヤンが、その野心と自尊心の満足を極めていく過程でうっかり恋に落ちてしまったりしつつも、最終的にはやはり自らの性質ゆえに命を失うことになる…という一連の物語である。

作品の舞台は1830年より少し前のフランス、7月革命の起こる前で、王党派による反動政治の時代だ。この、貴族と僧侶の時代においては、どこまでも洗練されていること、すなわち「相手の期待していることの裏をかけ」、「常識はずれも気取りのまねもいけない」というのが社交界で影響を持ち続けるための唯一絶対のルールであった。

ジュリヤンは木こりの倅であるから、そんな洗練とはまったくの無縁、おまけに、「きみに言葉をかけても、きみが喜びはしないということは、はたの目にもわかる」と言われてしまうような性格をしているので、運良く貴族たちの世界に潜り込むことができても、はじめのうちはなかなかうまくふるまうことができない。だが、貴族の女を口説き落としていこうとする過程で、その「腹のなかとは似てもつかない冷ややかな顔」や「自分を抑えることのできる」能力を活かしていく術を徐々に身につけていくことになる。その辺りのじりじりとした心理描写の細やかさこそが、本作のおもしろさだと言えるだろう。

たとえば、ジュリヤンが自分自身に、「レーナル夫人の手をにぎる」というミッションを課す決心をするシーン。

身振りをした拍子に、ジュリヤンはふとレーナル夫人の手にさわった。庭に出してあるペンキ塗りの木の椅子の背にのせていたのだ。
その手はすばやくひっこめられた。だが、ジュリヤンは、さわったとき、ひっこめさせないようにするのが、自分の義務だと思った。義務は果たされなければならないし、それができなければ笑いものになる、というより劣等感におそわれると思うと、たちまち喜びもなにも心から消えうせた。(上巻 p.80,81)

また、その後、レーナル夫人の手をしっかりとにぎることに成功したジュリヤンは、こんな風にかんがえたりもする。

翌朝は五時に起された。レーナル夫人が知ったらひどいひとだと思ったろうが、ジュリヤンはろくろく夫人のことなど考えもしなかった、自分の義務を、しかも英雄的な義務を果したのだ。そう思うと、あふれるほどの幸福感におそわれ、部屋に鍵をかけて閉じこもり、興味を新たにして崇拝する英雄の武勲の話に読み耽った。
昼食の鐘が鳴ったときも、ナポレオンの遠征の戦報に読み耽っていて、昨日おさめた勝利のことはすっかり忘れていた。サロンへおりていきながら、浮いた気持で、《愛していると、あの女にいってやらなくてはなるまい》とつぶやいた。(上巻 p.85,86)

あるいは、マチルドを落とすための方策がわかったぞ、と確信を得るシーン。

ジュリヤンは、夢中で、ナポレオンの『セント=ヘレナで口述された回想録』を開くと、たっぷり二時間のあいだ、読もうと努力した。ただ字が目にはいるだけだったが、それでもかまわず、がむしゃらに読んだ。この奇妙な読書のあいだに、頭と心が興奮してきて、なにか壮大きわまる事件の渦中にあるような状態で、知らず知らずのうちに働き出していた。《あの女の心はレーナル夫人のとはだいぶ違う》だが、それ以上考えは進まなかった。
《相手を恐れさせよ》と、ジュリヤンは急に本を遠くへ投げ出して叫んだ。《恐れさせているかぎり、敵はおれに服従する。そのあいだはおれを軽蔑したりしないだろう》
うれしさに感きわまって、ジュリヤンは、小さな部屋の中を歩きまわった。ほんとうをいえば、それは恋の幸福というよりも、自尊心の満足のためだった。
《相手を恐れさせよ!》ジュリヤンは得意になってくり返したが、得意になるのももっともだった。《どんなにうれしいときでも、レーナル夫人は、おれの愛情が自分のよりすくないのじゃないかと心配していた。だが、こんどの場合は、おれの征服しようとしているのは悪魔だ。だから征服しなくてはならない。》(下巻 p.392,393)

これらのシーンからも明らかなように、ジュリヤンは野心剥き出しでエゴイスティック、打算的なところだらけの青年である。だが、それと同時に、彼は極めて高いプライドを持っており、それを傷つけられることにどうしても耐えられない、というピュアで直情的な性格を持ち合わせている人物でもある。ある意味では、潔癖な理想主義者だと言うこともできるだろう。だいたい、上記のようなシーンではかろうじて周到にふるまえているけれど、恋の熱に浮かされて、おかしな行動をとってしまう場面だって決して少なくはないのだ。まあ、そのようなアンバランスさこそが、レーナル夫人やマチルドを惹きつける要因にもなり、そしてまた、彼自身の身を滅ぼす元にもなってしまう…という訳だ。

そんなジュリヤンにとって、生きることというのは、自らのエゴやプライドを決して裏切らないようにその時々の選択を行い続けていく、ということだったと言えるだろう。ジュリヤンを駆り立てているものは常に一貫しており、だから、彼がレーナル夫人をピストルで撃つことと、その後に彼女への想いを募らせて汲々としたりすることのあいだには何の矛盾もなく、また、その結果、自分が死刑となるに及んだところでまるで後悔することがないというのも、とくに不可解なことではないのだ。

そういう意味では、ジュリヤンにとって、出世や恋の成就といったものはあくまでも副次的なものであったのかもしれない。彼を突き動かす最も重要な動機というのは、彼の英雄願望、彼の自尊心の充足、彼の上昇志向の満足といったものなのだ。もちろん、出世や恋が彼にとって重要でないというわけではない。それらは彼の志向を満足させるための具体的なターゲットであって、もしそれらがなければ、彼は自分の有り余るエネルギー――それは自分の勇気を試してみたいという野心であり、冒険心である――を持て余すことしかできなかっただろうからだ。


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