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『知識人とは何か』/エドワード・W・サイード

『知識人とは何か』/エドワード・W・サイード

サイードによる知識人論。BBC放送向けに行われた講演をまとめたもので、シンプルな主張がコンパクトにまとめられている。

サイード曰く、知識人とは、権力や伝統、宗教やマスメディアや大衆や世間に迎合せず、また、利害や党派性や原理主義や、専門家の狭量な視点に縛られることなく、「アマチュア」として、「亡命者」として、「周辺的存在」として、何ものにも飼い慣らされず、立ち止まらず、果敢に動き続け、言葉を効果的に使って批判を投げかけることのできる、そういった人間のことである。単純な二項対立や常套句、集団内の空気といったものに抗い、大勢を撹乱し、彼らにとって耳当たりの悪いことを言い続けるのが使命だというわけだ。だから、サイードにとっての知識人とは、権力からは疎まれ、と同時に、大衆からも嫌われやすい人物だということになる。

わたしが使う意味でいう知識人とは、その根底において、けっして調停者でもなければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である。つまり、安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこばむ人間であり、なかんずく権力の側にある者や伝統の側にある者が語ったり、おこなったりしていることを検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である。(p.54)

とにかく迎合するまえに批判せよが、簡にして要を得た解答となる。知識人にはどんな場合にも、ふたつの選択肢しかない。すなわち、弱者の側、満足に代表=表象(レプリゼント)されていない側、忘れ去れれたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。(p.68)

こういったからといって、反対のための反対を肯定しているわけではない。ただ、ここでいいたいのは、恐れず問いただすこと、きちんと区別すること、そして、集団的判断や集団的行動に短絡するときに無視されるか黙殺されがちなことを、いま一度記憶に甦らせるべきだということである。集団や国民的アイデンティティをめぐるコンセンサスに対して、知識人がなすべきは、集団とは、自然なものでも神があたえたもうたものでもなく、構築され、造形され、ときには捏造されたものであり、その背後には闘争と征服の歴史が存在するということを、必要とあらばその歴史を表象しつつしめすことなのだ。(p.69)

知識人といっても人間である以上、何かしらの共同体(民族、国家、宗教etc.)に属しているわけだけれど、自らの理性でその中心から意図的に距離をとり、あくまでも周辺の立場から、共同体中のコンセンサスや権力構造を解釈、分析していかなくてはならない、ということだ。だから、実利的な関心しか持たない一般市民や、既存の制度に所属し、そのなかで特定の職務をこなすような企業人、政治家、大学教授などの専門家は、たいていの場合、知識人ではあり得ないということになるだろう。

常に何ものにも取り込まれないアウトサイダーであり続けること、そして、アウトサイダーでありつつ、なお普遍的で効果的な批判を行い続ける、ということは果たして可能なのか?また、そのような存在が本当に「弱者の側」をrepresentすることができるのか??という疑問は残るけれど、サイードにとっての知識人の理念をわかりやすくまとめてくれている、という意味でこれは価値のある一冊ではないかとおもう。「有識者」という言葉に代表されるような専門家の意見が重用されてばかりいるいまの日本には、こういう知識人はほとんど存在していないだろう。


『写字室の旅』/ポール・オースター

『写字室の旅』/ポール・オースター

オースターの2007年作。シンプルな四角い部屋のなかに、老人が一人。彼には何の記憶もない。部屋の天井には隠しカメラが設置されており、その姿を撮影し続けている。やがて、彼の元をさまざまな人物が訪ねてくるのだが…!

長編と呼ぶには分量少なめの本作は、オースターお得意の「カフカ的不条理」に、「書くこと」、「物語ること」といった伝統的なテーマが組み合わさるような形で構成されている。そういう意味では、彼の初期の小説を思い起こさせるような作風だと言ってもいい。

ただ、本作からは、『幽霊たち』や『鍵のかかった部屋』にあったような、身を切るような切実さというものはいまいち感じられなかった。作家自身にとってはこれでもじゅうぶん意味のある作品になっているのかもしれないけれど、彼の心象風景を直接知ることのない読者にとっては、作中で描かれている内容だけではまだまだ物足りないというか。いろいろな要素を匂わせているばかりで、それらがまったく突き詰められていない感じがしてしまったのだ。

本作の大きな特徴としてまず挙げられるのは、主人公のミスター・ブランクが、「オースター自身をモチーフにしたとおぼしき人物」であり、「写字室」で過ごす彼を訪問するのが、「オースターの過去作品の主人公とおぼしき人物たち」である、という点だろう。だからまあ、これはある種のファンサービス的な一冊ということなのかもしれない。(そうかんがえれば、全体的に詰め切れていない感じにも、目をつぶってしまえる気がする。)

この特徴について、柴田元幸は、「訳者あとがき」でこんな風に書いている。

興味深いのは、この小説に出てくる、かつてミスター・ブランクから「任務」を課された人びとのほとんどが、彼に対して恨み、つらみ、敵意を――時にはきわめて激しく――抱いているらしいことだ。そしてミスター・ブランク自身、過去を思い出そうとすると、ほとんど自動的に、疚しさの感情、罪悪感が湧き上がってくるのを感じるのである。ならば、オースターもまた、過去に自分が創造した人物たちから憎まれ、恨まれていると感じ、彼らに対し疚しい思いを抱いているのだろうか?
この問いへの答えがイエスかノーかはわからないし、どちらであったとしても、作品そのものの値打ちとは直接関係がないことだろう。むしろ大事なのは、ここでのミスター・ブランク/ほかの人物たちの関係が、現実の我々の、自分/他人との関係を、どれだけ反映しているように感じられるかではないか。もしそれが、読んでいる我々には何の関係もない、あくまで一人の特権的な作中人物と、その他の作中人物との特殊な関係でしかないと思えるなら、この作品は、一種よく出来た知的な戯れにすぎないことになるだろう。(p.168)

いや、うーん、これはどうなんだろう?正直、ちょっと苦しい言い分なんじゃないだろうか??もし、本当に大事なのが、「ミスター・ブランク/ほかの人物たちの関係が、現実の我々の、自分/他人との関係を、どれだけ反映しているように感じられるか」であるのならば、ミスター・ブランクがオースター自身であるように見え、他の人物たちがこれまでのオースター作品の主人公たちであるかのように見える必要などないはずだろう。現実の我々は、他人を創造することなどできないのだから。それに、そもそもオースターの作品の魅力というのは、「一種よく出来た知的な戯れ」と、ある種の切実さが不可避なかたちで結びついてしまっている、まさにそんなところにあるんじゃなかったっけ?…そんな風に俺はおもってしまったのだった。

そうかんがえると、やっぱり本作は、「物語の語り手は、自身の物語に対してどのように責任を負うのか」という問題に焦点を当てようとしているのではないか、という気がしてくる。「物語の語り手」というのは、べつに小説家には限らない。誰かに何かを伝えようとするとき、その人は語り手という特権的な立場の人物になるのだから。そして、物語というのは、事実と事実とを結びつけ、適切な文脈を与えることもできれば、人を騙し、欺き、叩きのめし、怒らせ、戦争を引き起こすために機能することだってできるものだ。その強度や説得力や倫理性は、特権的な人物たる、語り手の想像力の限界によって規定されることになる。作中作の「報告書」で語られているこの辺りの問題は、なかなか興味深いものだ。

それはそれで良いのだけれど、ただ、物語の主人公たるミスター・ブランクが、この問題に対する答えをまるで持っていない――どころか、問題そのものを明確に認識することすらできていないように見える――ということが、本作をどうにも物足りないものにしているようにおもう。ミスター・ブランクがぜんぜん動かないがために、読者は「この小説の中では何も起こっていないじゃないか」という気分になってしまい、テーマが掘り下げられていないような印象を持ってしまうのではないか。そんな気がする。


『天使の囀り』/貴志祐介

『天使の囀り』/貴志祐介

Kindleにて。手堅いサスペンス・ホラーものを得意とするエンタメ作家、貴志祐介だけれど、今作は怖いというよりも気持ち悪い、それも超絶気持ち悪い一作だと言っていいだろう。何が気持ち悪いのか、ってところは本作のサスペンス要素に大きく絡んでくるので具体的には書かないでおきたいのだけれど、えっ、この人何かんがえてるの…っていう「底の知れなさ」からくる内面的な気持ち悪さと、もうぱっと見がとにかくおどろおどろしい、っていう外面的な気持ち悪さ、その両方を完全に兼ね備えている作品なのだ。そこがすごい。それにとにかく、ちょっとこれは映画化とかはできないだろうな、とおもえるくらいにグロテスクなんである。

物語のプロローグでは、調査団の一員としてアマゾン奥地に向かった高梨から、恋人の早苗に宛てて送られてきたメールが示される。いまいち要領を得ない文面だが、アマゾンで何かアクシデントが起こり、それが原因で高梨らは急遽帰国することになったのだという。戻ってきた高梨は、早苗の知っていた以前の彼とはまるで違った人格の持ち主になっており、しばらく後、突然に謎の自殺を遂げる。そしてまた、調査団の他のメンバーも、同じように不可解な自殺を図っていくのだが…!

読者には、「アマゾンでの何か」が原因で謎の自殺がいくつも発生している、ということは知らされているのだけれど、それ以上のことはなかなかわからない。病原菌、精神疾患、呪い、麻薬、洗脳…いろいろなアイデアは浮かんでくるけれど、これという答えが見つからないのだ。そんななか、自殺の手段がエグい方へグロい方へとエスカレートしていく。何といってもここが本作の読みどころで、読者は早苗と共に事件の謎を追いながら、このサービスシーンとでも言うべき、人間がある一線を踏み越え、壊れていき、そして尋常でない方法で自らを殺していく様子をいくつも目撃することになるのだ。

もっとも、そこは貴志作品、文章のタッチは冷静で、精密なディテールがしっかりとプロットを支えている。エグさやグロさといった生理的な恐怖感、嫌悪感に訴えるだけではなく、ミステリ的な要素を次々と繰り出しては読者の興味を繋げていくというところなんかは、まさに職人の仕事、という感じだ。サスペンスとして、じゅうぶんにおもしろい。エンディングでもばっちりオチが決まっているところなんか、きっと誰しもが感心してしまうはずだ。


「クロイツェル・ソナタ」/レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ

「クロイツェル・ソナタ」/レフ・トルストイ

嫉妬がもとで妻を刺し殺すに至った、ある貴族の男の告白。プロットとしては非常にベタなのだけれど、殺人にまで至った自身の心情を逐一綿密に辿っていく男の台詞によって、その一連のプロセスが特殊な事情によるものではなく、ある真理によって必然的に引き起こされたものであるかのように語られていくところがおもしろい。

男は、自身の結婚生活の破綻を経て、現在の婚姻制度やら愛やらといった観念などというものはそもそも幻想であり虚飾であり、そこにあるのは男と女の欺き合いでしかない、という考えを持つに至る。

ところで男性が女性をどのように見ているかということは、私たちは誰でも知っていますね。つまり『酒と女と歌』というやつで、詩人たちもおなじことを書いているじゃありませんか。(p.219)

近頃ではもう女性を尊敬するなどと主張するのが流行っています。女性に席をゆずったり、ハンカチを拾ってやったりする連中がいるかと思えば、女性があらゆる地位に就く権利、女性の参政権といったものを認める連中もいます。
でも、そうしたいろんなことをしてみせながら、女性に対する見方はまったく変わっていません。女性は相変わらず快楽の道具であり、女性の肉体は快楽の手段です。そして女性の側もそのことを承知しているのです。(p.220)

結婚だの愛だのというものは、性的衝動や支配欲を適当にデコレーションしているだけの、単なる幻影である。なあ、お前らだって本当はそんなことわかっているんだろう?というわけだ。

まあ非常に男性目線な理屈ということになるのだろうけれど、これが単なる口先だけの理論ではなく、この男――自身の幻想を完膚無きまでに打ち破られた男――の口から語られていることで、異様に迫力のある、リアリティ豊かでちょっと無視することのできない意見になっているというところは、さすがトルストイという感じだ。

私はもはや嫉妬することさえ自分に許しませんでした。第一に、もう嫉妬の苦しみは味わいつくして休息を必要としていたからですし、第二に、妻の断言したことを信じたかったし、また信じていたからです。しかし嫉妬していないとはいえ、晩餐会のときと音楽が始まる前のパーティーの前半を通して、私はやはり彼に対しても妻に対しても自然な態度はとれませんでした。私は相変わらず二人の動きや目つきをじっと観察していたのです。(p.286)

何を考えても、全部あの二人のことに結びついてしまうのです。私はひどく苦しみました。
一番苦しいのは、分からないこと、疑っていること、半信半疑の状態でいることでした。つまり妻を愛したものか憎んだものか、判断がつかないのが一番苦しかったのです。いまだに覚えていますが、苦しみのあまり一つの考えを思いつき、それが大いに気に入ったものです――それは外に出て線路に横たわり、汽車に轢かれて一挙にけりをつけるという考えでした。そうすれば少なくともこれ以上、迷ったり疑ったりしないですむでしょうから。(p.302)

男の台詞によって語られていく各シーンが、独占欲や性愛にまつわる感情のままならさを生々しく映し出していることで、本作は単なる禁欲主義小説、説教臭い道徳話に陥らず、人間を真正面から描いた、普遍的な作品になり得ているようにおもう。昼メロ的なプロットではあるけれど、その主人公のひりひりとした心情は、痛いくらいに生々しく感じられるのだ。


「イワン・イリイチの死」/レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ

「イワン・イリイチの死」/レフ・トルストイ

舞台は19世紀ロシア。世俗的な成功を手にした中年裁判官、イワン・イリイチという男がふとしたきっかけで病に倒れ、数ヶ月の苦しい闘病の末に死んでいく…という一連の流れを描いた物語だ。

イワン・イリイチという男は、ごく平凡な性格と人生観とを持った主人公である。「賢く覇気があって好感の持てる、品のいい」若者だった彼は、「気楽で、快適で、陽気で、つねに上品で周囲に祝福されるような暮らしぶり」を追求し、それを得ることに成功する。仕事で出世し、素敵な女性と結婚し、家庭を築き、豪華な邸宅を手に入れ、ときどき息抜きに友人たちとカードをしたりもする…何事につけてもうまくやるコツを心得た、世渡り上手な人物というわけだ。彼の価値観は、現代の日本人の価値観と何も変わらない。彼の人生は、言ってみれば「成功者」のそれだといっていい。

そんな「成功者」だったはずの彼だが、病に倒れ、己の死が迫り来るのを自覚したとき、いままで積み上げてきたいっさいのもの――地位や名誉、金や権力、友人や家族、自尊心や虚栄心――が、まったく無価値で無意味なものだとしかおもえなくなってしまう。自分はいったいいままで何をしてきたのだろう?いままで何を歓んでいたのだろう??そんな風にしか感じられなくなってしまうのだ。これほど恐ろしいことはない。何しろ、自分の人生の最終コーナーにまで至って、いままでのすべてが無意味だったと悟ってしまったのだ。悟ったところで、もはや何の取り返しもつかないのだ。

「生きるって?どう生きるのだ?」心の声がたずねた。
「だから、かつて私が生きていたように、幸せに、楽しく生きるのだ」
「かつておまえが生きていたように、幸せに、楽しく、か?」声は聞き返した。そこで彼は頭の中で、自分の楽しい人生のうちの最良の瞬間を次々と思い浮かべてみた。
しかし不思議なことに、そうした楽しい人生の最良の瞬間は、今やどれもこれも、当時そう思われたのとは似ても似つかぬものに思えた。幼いころの最初のいくつかの思い出をのぞいて、すべてがそうだった。(p.120)

今の彼、つまりイワン・イリイチの原型が形成された時代を思い出し始めるや否や、当時は歓びと感じていた物事がことごとく、今彼の目の前で溶けて薄れ、なにかしら下らぬもの、しばしば唾棄すべきものに変わり果てていくのであった。(p.121)

自分では山に登っているつもりが、実は着実に下っていたようなものだ。まさにその通りだ。世間の見方では私は山に登っていたのだが、ちょうど登った分だけ、足元から命が流れだしていたのだ……。そしていまや準備完了、さあ死にたまえ、というわけだ!
さて、これはいったいどういうことだ?なぜこうなったんだろう?こんなことはありえないじゃないか。人生がこれほど無意味で、忌まわしいものだったなんて、おかしいじゃないか。(p.122)

己の死と正面から向き合わざるを得なくなったとき、その人間はどこまでも孤独でいるしかない。誰がどんな言葉をかけてこようと、何をしてこようと、結局のところ、死ぬのは私であってあなたではないのだし、そもそも、人間は他人の痛みや恐怖を真に共有することなどできないのだ。

そんな孤独なイワン・イリイチにとっての唯一の慰めとなるのが、召使いのゲラーシムと、中学生の息子の存在である。彼らだけが、まもなく死を迎えようとするイワン・イリイチの境遇に同情し、哀れんでくれたのだ。哀れみが孤独を解消してくれるわけではないけれど、彼らの世間ずれしていない素朴な感性は、「子供をあやして慰めるように、優しく撫で、口づけして哀れみの涙を流してほしかった」イワン・イリイチに、ちょっぴり安らぎを与えることができたというわけだ。

そういう意味では、本作は、死を目前にした男の回心と救済を描いた、教訓物語であるということができるかもしれない。本当の幸福についてとくにかんがえることなく過ごしてきた世俗的な男が、その生の終わりに、己の価値観を粉々に打ち砕かれた末、最後の最後でやさしさや同情、慈しみといった感情の美しさを認識する…といったような。

だが、私たちはイワン・イリイチの生を教訓として、後悔のない生き方をすることなどできるのだろうか?彼は死の間際、本当に最期の瞬間になってようやく「光」を見出すわけだけれど、それはあくまでも、「死」を全うし、すべてが失われゆくまさにその瞬間だったからこそ見出すことのできた「光」だったのではないだろうか?

「死」をリアルなものとして感じることのできない私たちでも、このような作品を読んで、イワン・イリイチの気づきに感動したり、彼の恐怖を疑似体験することはできる。だが、本を閉じた後、自分にとっての本当の幸福――迫り来る死を前にしても揺らぐことのない、生きるよすがとなり得るもの――とは何なのか、はっきりと見つけ出すことなど、果たしてできるのだろうか?「人生の最良の瞬間」、「もしも取り戻せるならばもう一度味わってみたいような、なにか本当に楽しいもの」は幼年期にしかなかった、とイワン・イリイチは回想しているけれど、どこまでも世俗的な存在たる私たちが、「なにか本当に楽しいもの」を見つけるには、いったいどうすればよいのだろうか??その答えは、この本のなかにはない。


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