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『花様年華』

『花様年華』

DVDで。1960年台の香港を舞台に、オトナの男女の密やかな恋の情感を描いた、という感じの映画。映像の色彩やカットがいちいち美しく、主演のふたり、トニー・レオンとマギー・チャンも美しい。おお、なんてエレガントで官能的なんでしょう…ってぼうっと見ているのが幸せな作品だった。

プロットはごくシンプルだ。トニー・レオンとマギー・チャンが、同じ日にアパートの隣同士の部屋に引っ越してくる。ふたりはどちらも既婚者なのだが、どうやら互いの妻/夫同士が浮気をしているらしい、ということが発覚する。ねえ、気づいてます?ってふたりで会って話すようになるうち、彼らは少しずつ親密になっていくのだが…!

いわゆるラブストーリーのプロットを持つ本作だけれど、彼らの出会いや、恋に落ちて別れるまでのプロセスといったものが具体的に描かれているというわけではない。この映画で扱われているのは物語というより、禁じられた恋の情緒、詩情とでもいうべきものなのだ。だから本作では、言葉による状況説明というやつは最小限に抑えられているし、作品のポエジーに貢献しない要素はことごとく排除されてしまっている。(たとえば、トニー・レオンとマギー・チャンがお互いの想いや行動の理由をはっきりと口に出すことは一度もないし、彼らの妻/夫の姿に至っては、最後まで画面に映し出されることすらない。)観客に示されるのは、ふたりの心の微妙な揺れ動きに伴って発生する、欲望や愛情といったものの断片的な発露に限られているのだが、そんなストイックな編集術こそが、不倫の恋を前に、互いに一歩を踏み出すことを躊躇し続けるふたりの姿から、まどろっこしくもじわじわくるような官能性を引き出しているのだ。

物語は、すべてのできごとが過ぎ去ってしまった地点から語られているようで、その過去を振り返るまなざしのなかで生ずるノスタルジアは、ありとあらゆるシーンに一回性のオーラを付与し、ふたりの姿を美しく気高いものにしているように見える。作中で描かれる場面のほとんどは夜で、決定的な場面では雨が降っている。また、朱に近い赤色が画面の基調をなしており、忘れがたい印象を残す。


『ビフォア・ザ・レイン』

『ビフォア・ザ・レイン』

DVDで。救いや希望はまるでなく、陰鬱なムードが全体を覆っているものの、美しい映像や凝った構成からは非常な繊細さが感じられる、そんな映画だった。テーマとして扱われているのは、旧ユーゴ紛争の一環で独立したマケドニアの国内における、マケドニア人とアルバニア人との対立。物語は三部に分かれており、各部はいずれも惨劇をもって幕を閉じることになる。

第一部「言葉」は、マケドニアの海辺の教会が舞台。マケドニア正教会の若い修道僧のもとに、アルバニア人の娘が逃げこんでくる。娘は、どうやらマケドニア人殺害の容疑で追われているらしい。娘を教会に匿っておくことはできないので、ふたりは教会を出て、国外へと逃亡しようとするが、その途中、娘の親族につかまってしまい、娘は殺されてしまう。この部だけを見ると、プロットの単純さや風景の異様な美しさもあって、ファンタジーというか、おとぎばなしのような印象を受ける。

第二部「顔」で、舞台はロンドンに移る。マケドニア出身の報道写真家(彼は修道僧の叔父であるようだ)と、イギリス人女性との不倫の恋が描かれる。写真家はサラエボで捕虜の虐殺の瞬間をカメラに納め、ピュリッツァー賞を受賞したのだけれど、罪の意識に苛まれてもいる。彼は女性に、共にマケドニアに来てくれないかと告げるが、女性はすぐには答えを出すことができない。その夜、女性はレストランで夫に別れ話を切り出そうと試みるが、夫はまるで話を聞いてくれない。と、ウェイターにしつこく絡んでいた酔客が、いきなり店内で銃を乱射。夫は巻き添えになり、命を落としてしまう。テロも怖いが、妻の話をまるで聞こうとしない夫の態度もかなり不気味、というのがこの第二部である。

第三部「写真」は、写真家がマケドニアに帰ってくるところからはじまる。すっかり荒廃してしまった故郷の姿や、かつて共に生活してたアルバニア人とも、もはやふつうに会うことが叶わない、という事態にとまどう写真家だが、仲間たちは彼を暖かく迎え入れてくれる。だが、そんなある日、従兄弟がアルバニア人の娘によって殺されたとの報が入る。私怨による復讐から娘を救おうと写真家は立ち上がるが、仲間に撃たれ、やはり命を失うことになる。娘は逃げ去り、第一部の修道僧が姿を見せる。きわめて重苦しく、悲劇的なプロットだが、ここでも映像はひどく美しく、それが余計に悲しみを誘う。

…というわけで、いっけん時系列に並べられているように見える3つのエピソードだけれど、作品の終盤になって、”じつはそうではない”ことが観客に知らされる、という構成になっている。3つの物語は円環のようにループしているとかんがえることもできるし、それぞれがパラレルに進行したと捉えることもできるようになっているのだ。

そんな各部で描かれるのは、コミュニケーションの不全と、そのフラストレーションが高まりに高まった末の暴発である。発射される銃弾や、雷をともなった豪雨として表現されるその暴発は、あからさまな戦争勃発のメタファーとして機能しており、本作が当時のマケドニア情勢や民族問題、お互いの無関心と無理解とに端を発する暴力の突発性に対して、きわめてシビアな視線を持っていることを示している。そこには、期待や展望といったものは一切感じられない。

なんとも無慈悲な作品だけれど、それが本作の持ち味であり、役割だということなのだろう。あーおもしろかった!って言えるような映画ではまったくないけれど、内容と形式とがしっかりと結びついており、全体的なクオリティの高さにびりびりくる、そんな一作だった。


『デッド・カーム 戦慄の航海』

『デッド・カーム 戦慄の航海』

DVDで。チープな味わいのサスペンス映画。ジョンとレイの夫婦(サム・ニール、ニコール・キッドマン)は、息子を自動車事故で失った悲しみを癒すべく、ヨットでクルージングに出かける。彼らは航海の途中、ボートに乗ってやって来た妙に顔の濃い若い男、ヒューイ(ビリー・ゼイン)をヨットに乗せることになる。ヒューイは、エンジンが壊れてしまって船が動かなくなった、おまけに一緒に船に乗っていた仲間はみんなボツリヌス菌で死んでしまった、などと言ってはひとりでぶるぶる震えており、あからさまに不穏な雰囲気を醸し出している。ジョンは、ヒューイの船のようすをこっそり調べるべく、ボートに乗り込むのだったが、その隙にヒューイはヨットを乗っ取ってしまい…!

主要な登場人物は3人だけ、舞台はふたつの船と海だけ、っていう、きわめて限定された設定の下でプロットは進行していく。シチュエーションものサスペンスのお手本のような作品だと言っていいだろう。ジョンは沈没しつつあるヒューイの船からの脱出のためにひとり奮闘し、レイはヨット内での主導権をヒューイから取り戻すべく、命がけの駆け引きをすることになる(お約束の、セクシーなシーンもある)。

まあそういうわけで、いかにも低予算のジャンル内映画って感じの作品なのだけれど、いま見るとなかなかの豪華キャストではある。とくに、終始にやにやしているビリー・ゼインがとっても気持ちわるいのがよい(もちろん、彼は、頭のネジの外れたサイコ野郎、って役回りなのだ)。あと、ニコール・キッドマンって、そのゴージャスな存在感のわりに妙に声が女の子っぽい感じだよね、と改めておもった。なんていうか、ギャップ的なキュートさがあるのだ。(あ、でも、本作における彼女はまだまだ若いので、そんなにゴージャスというわけではない。なにしろ、1988年の作品なのだ。)


『ルビー・スパークス』

『ルビー・スパークス』

渋谷シネクイントにて。これはなかなかおもしろかった!長年のスランプから抜け出せないでいる小説家のカルヴィン(ポール・ダノ)は、ある日、夢に出てきた女の子を主人公に物語を書き始める。とってもキュートな彼女の名前は、ルビー・スパークス。作品を書いているあいだだけは、彼女に会える!ってわけで、寝食を忘れて書きまくるカルヴィンだったけれど、そんなある日、自分の創作であるはずのルビー(ゾーイ・カザン)が、現実世界に現れてきてしまう。自分の理想を完璧に体現しているルビーに、すぐに夢中になるカルヴィン。ふたりは共に暮らし始めることになるのだが…!

たとえどんなに自分にとって理想的な相手だとしても、その人のすべてを自分の望み通りにすることなど、誰にもできはしない。カルヴィンは「タイプライターひとつでルビーの”設定”を自在に変更できる」のだけれど、彼女がひとりの人間として人格を持ち、思考を持っている以上、カルヴィンであっても、彼女の生き方をコントロールしてしまうことなど、できはしないのだ。だから、ストーリーの進行に合わせてすこしずつ肥大していくカルヴィンのエゴは、当然のように、ふたりの関係を破綻させてしまうことになる。

人と人とのコミュニケーションっていうのは、決しておもった通りにはいかないし、むずかしい。自分がさんざん手間をかけたのに、相手にすこしも通じていないこと、相手によかれとおもってやったことが、まるで真逆の反応を引き起こしてしまうことなんて、いくらでもある。まったくもって甲斐がないし、疲れてしまう。でも、それでもやっぱり、人の幸せやよろこびっていうのは、その面倒くささ、やっかいさを乗り越えたところにしか存在しない。どんなに面倒でもややこしくてもうんざりさせられても、人は他者を求めずにはいられないし、他者と繋がるよろこびを一度味わったことがある以上、どんなに傷つけたり傷つけられたりしたとしても、そのよろこびを完全に諦めきってしまうことなんて、できはしないのだ。

まあそういうわけで、本作で扱われるテーマは、恋愛における支配欲やエゴといった部分に踏み込んだ、なかなかにシビアで生々しいものだ。けれども、そこはあの『リトル・ミス・サンシャイン』の監督、映像のポップな感覚や、ゾーイ・カザンのキュートさ、どんなにハードな場面であっても決してシリアスになり過ぎない音楽などが、プロットのシビアさをうまくコーティングしており、作品全体のバランスをポップな方に寄せることに成功している。見終わった後はきっと誰かと語りたくなる、広いレンジとバランス感覚を持った映画だとおもった。(あと、やっぱり、似たようなタイプの、『(500)日のサマー』とはいろいろと比べてみたくなるね!)


『シングルマン』

『シングルマン』

DVDで。ファッションデザイナーであるトム・フォードの初監督作品。ゲイの大学教授(コリン・ファース)を主人公に、パートナーを失うという体験の苦しみと、そこからのゆるやかな再生の可能性を描く。画面に映し出される構図や色調、ディテールはかなり凝っているし、どれもびしっとスタイリッシュに決まっているのだけど、それらがことごとく主人公の孤独感を引き立てるのに貢献しているところが印象的だった。映像が美しければ美しいほどに、クールであればあるほどに、主人公の姿は寂しく、はかなげに見えるのだ。

作中、恋人を失うことになる主人公は、「人生が価値を得るのは、ごく数回、他者と真の関係を築けたときだけだ」と語る。つまり、そんな真の関係を築けた他者を失うことは、人生の価値が失われることにも等しい、というわけだ。こうした喪失の経験は、人間というやつが他者との関係のなかで自分というものを形作っていく生き物である以上、誰もが避けて通ることのできないことだけれど、残念なことに、人間はいまなお、誰一人として、この問題に対する有効な解決策というやつを持っていない。だから、絶えず反復される痛みと悲しみとに打ちひしがれ、もうすべてを終わりにしようと決意した男が、最後の瞬間を前に、この世界に存在するちいさな喜びや美しさを少しずつ再確認していく…という本作のプロットは、きわめて普遍的で切実なものだと言えるだろう。

人は、誰かの喪失の痛みを本当に和らげることなどできはしない。喪失の痛みを和らげ、少しずつ消し去っていくことができるのはただ時間だけで、その長い長い時間をどうにかやり過ごしていくために、人は物語を語る。それはきっと、ありきたりで色あせた物語、いままで何度も繰り返されてきた物語、でも、何度繰り返したって決してじゅうぶんということはない、そんな物語だ。本作も、そういったひそやかな力を持った物語のひとつなのだろうとおもう。


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