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『風立ちぬ』

『風立ちぬ』

109シネマズ木場にて。宮崎駿のいままでの作風とはずいぶんと異なる作品だった。前評判は「大傑作!泣けちゃう!」みたいな感じですごかったけれど、うーん、この映画は好きじゃないな、というのが俺の正直な感想だ。とはいえ、クオリティの高い作品であることは間違いないし、まだまだ咀嚼できていないところがありそうなので、自分のかんがえ(何でこの作品が好きじゃなかったのか)を整理する意味で感想を書いていってみようとおもう。

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全体的には、いままでの宮崎駿作品からは想像することもできないくらい、地味で淡々とした物語だと言っていいだろう。お得意のアクションシーンもほとんどないし、イマジネーションのほとばしりがそのままアニメーションになったような、驚かされるような映像もない。主人公の二郎はいわゆる「エゴイスティックな天才」タイプの男で、物語の主軸となるのは、彼の飛行機設計に対する情熱と菜穂子との恋愛である。

おもしろいのは、作中で複数扱われるアンビバレントな感情たちの扱われ方だろう。「二郎は純朴な善人だが、殺しの道具である戦闘機の設計に没頭する」、「二郎と菜穂子は互いに求め合っているが、ふたりが共に暮らすことは菜穂子の寿命を縮めることになる」、「宮崎駿は反戦主義者だが、飛行機を愛している」、などなど。

これらのアンビバレンスが物語の展開のなかで解消されることはない。二郎も菜穂子も、「そうしなければならない」という感情に押し流されるようにして、アンビバレンスを抱えたまま、己の運命を全うすることになる。それはそれでひとつの生き方だし、それにケチをつけたり、それを否定したりすることは、当事者以外にはできないだろう。

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それはそれでいい。いいのだけれど、この映画は、その「そうしなければならない」彼らの姿を美しく、宿命的なものに見せるためのエクスキューズが妙にたくさんあるように、俺には感じられたのだった。なんというか、やたらと観客の目を気にしている感じがして、なんでこんなに言い訳がましいわけ?とおもえてしまったのだ。

たとえば、二郎は「善人」だが、彼の内には偽善的なところ、到底立派な人間とは言えないようなところもたくさんある、ということが多くの細部で表現されている。路上で見かけた親の帰りが遅い子供に同情し、お菓子を買って渡そうとするだとか、「いったいどこと戦争するつもりなんだろう」などと呟いてみたりだとか、自分のチームに同期の友人を無邪気に引き入れようとしたりだとか、妹の訪問をいつも忘れていたりだとか、結核の菜穂子が眠るすぐ隣で煙草を吸いながら仕事をしたりだとか。あるいは、山の療養所で、カストルプなる男に、「ここにいると、戦争や死のことを忘れるでしょう?」と不気味に告げられるところだとか。

こういった描写は、本来であれば、物語の多層性だとか二郎という人物の深みだとか一筋縄でいかなさだとか、そういったものに繋がっていくものだろう。だが、俺には、今作においてこれらがそういった役割を果たしているようにはおもえなかった。これらは単なる「観客に対するエクスキューズ」、つまり、「二郎は完璧な天才ではなく、大小さまざまな欠点を併せ持った人間なんですよ」、「この作品では直接人の死を描くことはないけれど、飛行機がどういう役割を果たすのかってことは、二郎だってもちろんきちんと認識していますよ」、「この映画は戦争を糾弾しているわけでもないし、かといって二郎のような人間を留保なしに賞揚するものでもありませんよ」、「時代の大きな流れに個人が逆らうことはできず、個人ができるのはそのなかでただ必死に生きることだけなんですよ」…という、二郎のエゴイズムに対して作品の立場を確保するための、バランス取りのための描写にしか見えなかったのだ。

そうやって作品全体を「健全な、いい具合のバランス」にしておいて、「それでも、二郎は飛行機を作るしかなかった」、「菜穂子は二郎のもとに行くしかなかった」、そして、そのようにさまざまな矛盾をその内に孕んでいるが、それでも飛行機は美しい、ふたりの愛情は美しい、と言っている…俺にはそういう風に感じられたのだった。

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エゴイスティックな主人公の生き様を描いた映画というのはたくさんある。ここに感想を書いた最近の作品だと、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』とか、『マン・オン・ザ・ムーン』とか、『イントゥ・ザ・ワイルド』とか。これらの作品を見ていると、俺は主人公のふるまいに呆れ、ほんとに自分勝手でしょうもないやつだなーとおもいつつも、彼らがあまりにも己の欲望に忠実であるがゆえに共感してしまう。なぜなら、俺は彼らほどに自分の欲求や野望に忠実に生きることなどできないからだ。彼らほど第三者の視線や思惑を無視したまま、能動的かつ自律的にふるまうことなどできないからだ。

でも、『風立ちぬ』は、そういった映画たちと比べると、作品全体の指向性があまりにも自己検閲的過ぎるようにおもわれて、それが気に食わなかったのだとおもう。他者の視線に惑わされない、己の信ずるところに向かってまっすぐに突き進んでいくことのできる強烈なエゴを持った人間が二郎である――作中では、それは「ピラミッドのある世界」の賛同者、と表現される――のにも関わらず、この映画はあまりにも「二郎が観客の目にどう映るか」、「二郎が観客にどう思われるか」を気にし過ぎて「健全な、いい具合のバランス」に着地させようとばかりしている、そんな風におもったのだった。

この作品を素晴らしい、と評価している人は、おそらく、宮崎駿がはじめて自分のエゴをさらけ出して作った、正直な作品だ、というところに惹かれているのだとおもう。そして、二郎に、周囲を顧みず何かをまっすぐに追い求める者だけが放つことのできる輝きを見ているのだろう。だが、俺にはその輝きは感じられなかった。俺に感じられたのは、二郎の姿は美しく輝いているはず、という結論ありきで、観客にそうおもわせるための仕掛けや言い訳がいっぱいに散りばめられた作品、ということだけだった。まあ、そういう「ええかっこしい」なところも含めて、宮崎駿のエゴが表出されている、ということなのかもしれないけれど…。


『ラヴ・ストリームス』

『ラヴ・ストリームス』

早稲田松竹にて。 結婚生活が破綻した後、破天荒な生活を送っていた弟(ジョン・カサヴェテス)のもとに、同じく結婚生活に破れた姉(ジーナ・ローランズ)がやってくる。ふたりはそれぞれに愛を求めて彷徨するのだが…!

ジーナ・ローランズは、『こわれゆく女』と同様、どこか精神を病んだ、エキセントリックな女性を演じている。そして、ジョン・カサヴェテスも、姉ほどではないにせよ、何かが決定的に欠落した人間として描かれているようだ。彼らの行動はとりとめがなく、まともな目的や目標があってふるまっているようには到底見えない。本能任せで行き当たりばったり、その場、その瞬間の感情だけに忠実なのだ。そんなふたりだから、どんなに必死に行動してみても、それが描き出すのは負のスパイラルでしかない。冒頭から不安定な彼らの精神は、2時間以上経っても、一向に安定の兆しを見せないのだ。

映画の終盤で大量の動物たちが家にやって来る辺りから、物語は一気にその夢幻性を高め、強迫観念と妄想が入り混じった、神秘的で圧倒的なムードを醸し出していく。とくに、ジーナ・ローランズが元夫と娘とを「30秒で笑わせる」と言ってプールサイドでギャグを連発するシーンは、不気味でもあり、物悲しくもあり、そして奇妙に美しくもあった。

狂気や妄想が爆発しているけれど、だからこそ大胆で、独特の輝きを持った映画だった。作中で語られ、各エピソードで描かれるように、主人公たちは「喪失感」を憂うけれど、その実はじめから「何も持ってはいない」。彼らは最初から最後まで、自分が求める人からの承認を得ることができないでいるのだ。持たざる者であるからこそ、彼らは強く真剣に「愛」なるものに憧れ、その止むことのない流れを自分のもとへ引き寄せようと不器用にあがき続ける。その姿は、どこまでも孤独を感じさせ、悲しいけれど、胸を締めつけられるような美しさを放ってもいる。


『こわれゆく女』

『こわれゆく女』

早稲田松竹にて。子供たちを実家に預け、ひさしぶりに夫婦ふたりで夜を過ごす予定だったニック(ピーター・フォーク)とメイベル(ジーナ・ローランズ)だが、急な仕事が入りニックは帰宅できなくなる。メイベルは夜の街を彷徨し、バーで捕まえた男を家に連れ込むのだが…!

神経症の妻を演じるジーナ・ローランズ、気が短くて思いやりがことごとく空回りする夫を演じるピーター・フォーク、このふたりの演技と彼らを映し出すカメラのねっとり感がとにかくすごい映画だった。作品全体を通して、張り詰めた空気というか、胃のなかにずうんと重いものが入っているような、なんとも重苦しく、嫌な気分が充満しているのが感じられる。スパゲッティの食事シーン、子供たちを迎えに行くシーン、家に招いた近所の子供たちをメイベルが歓待するシーン…どれも、見ているだけで胸が苦しくなるような感覚がある。

メイベルの神経症的なふるまいは時間の経過とともにニックに転移していくかのようで、映画の終盤におけるニックは、メイベルが前半で見せてきたような、ある種の強迫観念にとらわれているようにも見える。メイベルの「ウェルカムバックパーティ」で、「さあ、早く、リラックスして!」「ふつうに、たのしくやるんだ!」と目を血走らせて叫ぶニックは、ほとんど狂気の側に足を踏み入れているようでもある。

各シーンはどれもひたすらに重苦しくてやるせないのに、ニックとメイベルが互いに愛し合い、必要とし合っているのは明らかだし(ふたりは共依存的な関係にあるのだろう)、彼らの子供たちが両親を愛し、必要としているのもまた明らかだ。そんな切っても切れないような関係があってもなお、生きるということはひたすらに苦しい、あるいは、そんな関係があるからこそ、生は苦い…ということをこの物語は語っているようにおもえたけれど、でも、器用さゼロで直情的に想いをぶつけ合う彼らの姿は、俺にはなんだか眩しく見えたのだった。

おもしろいというような作品ではないし、何らのカタルシスが得られるわけでもない、救いのようなものもとくにない。はっきり言って見ていて疲れるし、なんともどんよりした気分にさせられる。ただ、この圧倒的にヘヴィな空気感と、それをきわきわの演技で伝える俳優たちの魂の凄絶さが感じられる作品だった。


『英国王のスピーチ』

『英国王のスピーチ』

DVDで。ジョージ5世の息子、ヨーク公ことアルバート王子は吃音が原因の発音障害に苦しんでいた。何しろ王族の公務にスピーチは必須、スピーチの機会がある度に彼のコンプレックスは膨らんでいくばかりなのである。彼は、妻エリザベスの勧めに従って、言語障害の「自称」専門家、オーストラリア出身のライオネル・ローグなる男のもとで治療を受け始める。ローグはロイヤルファミリーを前にしてもまったく臆することのない男で、やがてふたりは身分の違いを越えた友情を感じるようになっていく。そんな折、アルバートの兄、先代の後を継いで国王となったばかりのエドワード8世は、愛する女性と一緒になるため、王位を降りると宣言するのだが…!

かなりコンパクトな印象の作品だ。1930年代、第2次大戦直前の英王室を舞台にしているのに、主要な人物はアルバート(コリン・ファース)とエリザベス(ヘレナ・ボナム=カーター)、そしてローグ(ジェフリー・ラッシュ)の3人だけと言ってもいいくらいだし、テーマは、「アルバートの吃音症とその克服への挑戦」、あるいは、「大きな変化――兄が王位を降りてしまうので、英国王にならざるを得ない――を前に、それまでの自分を振り返り、自分自身のあるがままを受け入れる」というようなことで、まあ何にせよ、派手さはないのだ。もちろん、歴史ものだから、プロットにも驚きの要素というのは含まれていない。ただ、その代わり、非常に律儀な作風になっていて、吃音障害の苦しさというのがいったいどのようなものであるのか、かなりていねいに描かれているように感じられた。

吃音障害は、発音練習だけで完全に克服するのは困難であるということ、また、アルバートの症状の原因は、幼少期の心理的な問題にあったかもしれないらしい――吃音の原因というのは、現在においてもはっきりと解明されてはいないのだけれど――ということで、その治療は少なからず感情的な課題を扱うことになる。そういうわけで、今作の見どころは、やはりアルバートとローグの友情・信頼関係、ということになるだろう。身分や立場をまったく異にするふたりが、ときに衝突しながらも、時間をかけて少しずつ信頼関係を構築していく、っていうのは定番の展開でありながらも、やっぱり見応えがある。物語のクライマックス、アルバートがローグに向かって、「私には王たる声がある!」とおもわず叫ぶシーンなんかは、いま吃音から逃げるわけにはいかない、って気持ちが心の底から溢れ出てきているように感じられて、かなり感動的だ。

繰り返すけれど、とくに派手でドラマティックなエピソードがあるわけではない。ただ、細かな感情の機微がていねいに描写されているというそれだけで、じゅうぶんに心を動かされてしまうのだ。たとえば、治療に際しては対等な立場と信頼関係が必要だ、という信念を持つローグはアルバートに、「私のことを、ライオネルと(ファーストネームで)呼んでください」とたびたび言うのだけれど、アルバートはいつまで経っても彼のことを「ドクター・ローグ」、「ドクター」と呼び続ける。けれど、物語のクライマックスに至って、ジョージ6世となったアルバートは、側近の前で彼のことを「ローグ」と呼び、それから、「友人だ」とつけ加えてみせるのだ。そして、それに対してライオネルは、「ユア・マジェスティ」と返す。このやり取りに含まれた多層性なんて、しびれるよなー、とおもう。

あと、王族の人生に与えられている重圧というか、王族であるというだけで本当ににいろいろな制限があり責任があるんだなー、ということがしみじみと感じられる作品でもあった。そんななかで、ウィンザー公ことエドワード8世は、最近だと『ウォリスとエドワード』で「優しいだけの無能な男」という感じに描かれていたけれど、今作でもかなりしょうもない男、女にうつつを抜かす身勝手な男として描かれていて、そのダメっぷりはかなり強く印象に残った。


『パシフィック・リム』

『パシフィック・リム』

109シネマズ木場にて。IMAX3Dの吹き替え版で見た。前評判の通り、怪獣と巨大ロボットが戦う映画。本当にそれだけで、余計な要素は一切なし。主人公たちの繰り広げる人間ドラマは基本的に大味というか、あってもなくてもどうでもいいような感じで、とにかく怪獣とロボをかっこよく見せることだけが重要視されている。当然、いわゆるお決まりの展開に終始するわけだけど、ジャンル映画においてはそれは問題ではないってことなんだろうし、なにしろ映像のクオリティはばっちりなのだから、好きな人が大勢いるのはわかる気がする。

でも、正直言って、俺はこの映画を見ていてあまりカタルシスを感じることはできなかった。まあ俺が「映像がすごい映画」とか「アクションがすごい映画」にいまいち興味がない、っていうのもあるのだろうけれど、やっぱりドラマ性がなさ過ぎるのが気になってしまったのだ。いちおう主人公たちは各々過去の傷を背負っていたりするのだけど、それにまつわるエピソードたちはいかにも取ってつけたような印象だし、そのせいか、どうにも全体的に平板な感じがしてしまって。そもそも、人類が滅亡の危機だっていう絶体絶命感もあまり感じられなかったし。もっとプロット面で派手な展開があれば――仲間の誰かがよかれとおもってやったことのせいで作戦が完全に破綻、もはや打つ手なし、もうダメだやられる…からのテーマ曲&主役ロボがキメキメで登場、みたいなのとか――俺ももうちょっと盛り上がれたのかなー、などとおもったりした。

あと、もうひとつ気になったのは、「なんか画面が全体的にずっと暗い」ということ。怪獣とロボとの戦いはいつも夜とか海の中とかで行われるので、いまいちどういうアクションをしているのか、わかりにくいのだ。(そういえば、これ、『ダークナイト』とかを見たときにもおもったな…。)まあ、あんまりいい天気とかだと終末的な雰囲気が出ない、ってことなのかもだけど、なんかもうちょっと、何をやっているのかわかりやすい画面にしてもらえるとありがたいんだけどなー、と感じたのだった。


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