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『ウルフ・オブ・ウォールストリート』

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』

ずいぶん以前に、早稲田松竹にて。ディカプリオのドヤ顔がたくさん見られて――しかしこの人は本当にいろいろなドヤ顔を持っている!――それだけでもおもしろい、マーティン・スコセッシ作のブラックコメディ。これもまた実話をもとにした作品なのだけれど、『ブリングリング』と比べると、ずっとエンタテインメント性が強く、下品で、爽快感のある作品に仕上がっている。もぐりの株式ブローカーとして成り上がった後に証券会社を設立、株価操作などの違法行為によって若くして巨万の富を築き、ウォール街のウルフと呼ばれた男、ジョーダン・ベルフォートの一代記。

『ブリングリング』の主人公たちと異なっているのは、主人公のジョーダンが、自分の行っていることは端的にペテンであり詐欺であり欺瞞であり、自分はまったく倫理観に欠けた不道徳で最低な男であり、金は天下の回りものであり、金では愛や友情こそ買えないがしかしそれ以外のものであれば大抵うまく動かせてしまうのであり、自分の仕事はどうかんがえたって空虚なものだが、それを言うならその空虚とは資本主義社会のど真んなかにぽっかりと広がっているものに他ならないのであり、自分は金を回して増やすというサイクルやドラッグやセックスにまったくの中毒になっているのであり、それらもやっぱり空虚なものではあるのだけれど、じっさい大抵の人間の人生などというのはそのような空虚を巡って右往左往するものなのであり…といったもろもろを完全に理解しつつも、それでもやっぱりハイになるのはやめられないぜー、ってどこまでもクレイジーに突き進んでいくというところだ。

ジョーダンの姿は資本主義のヒーローにもヒールにも見えるし、じっさいそのどちらでもあるのだろうけれど、彼の姿が輝いて見えるのは、彼がどこまでも己の信念、己の欲求というものだけに忠実で、他の誰にもその邪魔はさせない、という強さを持っているからだろう。その信念と欲求の強さの表れが、ディカプリオのドヤ顔に収斂されるところに、この物語の明快で筋の通った感じがよく現れているようにおもう。とにかく笑わせてもらったし、すごく好きな映画だった。


『ブリングリング』

『ブリングリング』

ずいぶん以前に、早稲田松竹にて。LAに暮らす裕福な家庭の子供たちが、夜な夜なセレブの空き家に忍び込み、窃盗を繰り返す…という、本当にそれだけの話(実話)を描いた作品。「シャネルのバッグが欲しいの」→「そういえば、リンジー・ローハンは今晩パーティに出ているはず」→「リンジー・ローハン 住所」でネット検索→家はここか、じゃあひとつ戴きに行っちゃいますか→クラブで知り合いに自慢:「今日はリンジーん家からパクってきたわー」「まじ!?ウケるんですけどー。てか、それ超クールじゃない?」、って流れを繰り返すばかりなのだ。

彼らを駆り立てていたものは、つまるところ何だったのか?観客には最後までわからない。物欲、スリル、セレブのライフスタイルなるものへの憧れ、自己顕示欲、友達付き合い…まあいろいろな要素が組み合わさっているのだろうけれど、それでもやっぱり、こんなにも割に合わない、こんなにも無防備で無邪気なふるまいを、ハイティーンの子たちが繰り返すというのはなかなか腑に落ちないもので、俺は見ていてふしぎな気分にさせられたのだった。

まあ、ざっくりと解釈することはできなくもない。たとえば、この事件は、セレブ文化の影響力の強さと、SNSによる自己アピール文化の強さとの相乗効果によって生じたものだ、と説明してしまうことは可能だろう。友人や知人により強烈に自分をアピールし、承認を得たいとおもう気持ちは、SNSカルチャーに強く取り込まれたティーンならばそれなりに自然なものだろうし、強くアピールするには何よりもクールなもの(=セレブ)に自分がなってしまえばいい、ということになる。おまけにセレブはうんざりするほど大量のモノを持っていて、しかも自分の近所で家を留守にしている…そうなれば、こういう犯罪にまで手が伸びていってしまうこと自体は、まるで理解に苦しむようなものではない、とかんがえることができるだろう。

ただ、本作ではそういった彼らの心情や背景となるようなエピソードは(おそらく意図的に)描かれていない。だから、彼らが自らの行為を反省したりして、ひとつ大人への階段を登ったりするような場面はまったく出てこないし、内に秘められた本心なるものを――そんなものがあるとすればだが――匂わせるようなこともない。とにかく彼らは、省察や重さや悲壮感とは無縁なのだ。本作のカメラは、先のことなど何もかんがえず、ふらふらと悪さをしては遊び回る彼らの姿を、空虚で軽薄で、きらきらしていて、どこか孤独を感じさせる、弱い少年少女として映し出しているばかりなのだ。


『ウォールフラワー』

『ウォールフラワー』

日比谷TOHOシネマズシャンテにて。他人とコミュニケーションを取ることが苦手で、文字通り「壁の花」だった16歳の少年が、自分を認めてくれる友人たちと出会い、彼らと共に時間を過ごすなかで、友情や恋愛にまつわるさまざまな喜びや苦しみを知っていく…という、いわゆる通過儀礼についての物語だ。まあ、王道ど真ん中をいく青春映画だと言っていいだろう。原題は、”The Perks of Being a Wallflower”。

本作の物語は、こういったティーンの友情ものにはお決まりのエピソード――自分を理解してくれる先生が現れたり、コカインパーティではじけてみたり、友人がゲイであることをカミングアウトしてきたり、好きな子がいけ好かない奴と付き合っていたり、友達グループのなかで「やらかして」しまって居場所をなくしたり――の連なりによって構成されている。いずれも既視感のある内容ではあるのだけれど、なかなか描写がていねいだし、主人公たちの自然体な演技が素敵なのもあって、たのしく見ていられた。(ただ、物語の後半に至って、主人公の幼少時のトラウマが明らかになる、という展開については、ちょっと蛇足であるようにも感じられた。主人公の「壁の花」的パーソナリティがトラウマ由来の特殊なものであるかのように見えてしまうことで、物語の普遍性が減退してしまうようにおもえてしまったからだ。)

作品の舞台は90年代前半のアメリカで、主人公たちはザ・スミスやデヴィッド・ボウイを集めたミックステープを作って交換したり、『ロッキー・ホラー・ショー』を舞台で演じたり、レコードやタイプライターをプレゼントし合ったりする。こういう細部にはなんとも言えないわくわく感があるし、クライマックスのシーンでデヴィッド・ボウイの”Heroes”が使われるのなんて、むちゃくちゃにベタだけれど、やっぱり、ぐっときてしまう。

要は、誰しもが通ってきた10代の頃を振り返ってみたときにだけ感じることのできる、きらきらとして甘酸っぱいノスタルジーの感覚にフォーカスした作品というわけで、こういう物語に感情移入しないでいるのは難しい。なりたい自分になるため、欲しいものを手に入れるために、なけなしの勇気を振り絞って前に一歩を踏み出そうとする16歳♂の物語なんて、もう誰が見たってキュートに決まっているのだ。

 *

…そういえば、デヴィッド・ボウイの曲って、映画のなかで使われるとすごく印象に残ることが多いなー、とおもう。『ドッグヴィル』の”Young Americans”や、『ライフ・アクアティック』のセウ・ヨルギによる”Starman”カヴァー、最近だと『クロニクル』の”Ziggy Stardust”の使われ方なんかは、どれも素晴らしかった。ドラマティックな曲調や歌詞が、物語の世界観となんとも絶妙にマッチしているのだ。


『ムード・インディゴ うたかたの日々』

『ムード・インディゴ うたかたの日々』

渋谷シネマライズにて。ディレクターズカット版を見てきた。ヴィアンのファンなら見て後悔はしないはず…と聞いていた本作だけれど、たしかに、かなり原作(『うたかたの日々』/ボリス・ヴィアン)を尊重した作りになっていたようにおもう。ミシェル・ゴンドリーならではの、キュートでおもちゃっぽく、ときどきシニカルな映像との相性も、かなりよかったんじゃないだろうか。少なくとも、俺は結構気に入った。ヴィアンの文章には、言葉遊びやシュルレアリスティックなイメージがたくさん出てくるので、「あー、ゴンドリーはあのシーンをこういう風に読んだんだなー」なんてことをかんがえたりするのが、非常にたのしいのだ。(なので、少なくともディレクターズカット版については、原作を読んでから見た方がいいのではないかとおもう。)

まあそういうわけで、全体的になかなか好みな作品だった、ということになるのだけれど、不満というか、腑に落ちなかった点がひとつ。それは、主役のふたり、ちょっと歳がいき過ぎているんじゃないか??ということだ。

原作において、コリンとクロエがどこまでも自由で身勝手でわがままでいられるのは、若くて美しくて、おまけにお金もたっぷりと持っているからだ。それなのに、本作におけるロマン・デュリスとオドレイ・トトゥってアラフォーのふたりからは、若くして強者であるがゆえのエゴイスティックなところや、無邪気で向こう見ずなところ、だからこそその幸福は長続きしそうにないだろう、っていうような印象が、ほとんど感じられなくて。

なんでこのふたりが主役になったんだろう?20歳前後で、何ていうか、もっとはっちゃけた感じのする俳優じゃダメだったんだろうか??とおもったのだった。(ロマン・デュリスは結構がんばっている感じがしたのだけど、それでもまだまだ知的で大人っぽすぎる気がした。もっと線が細くて頼りない、いかにも「男の子」って雰囲気のする人だったら、よかったのになー。)他のイメージがかなり原作に忠実に作られていただけに、どうもそこだけ強く違和感を覚えたのだった。


『クロニクル』

『クロニクル』

池袋シネマサンシャインにて。ハイスクールに通う少年たち3人が、ふとしたことで超能力を手に入れる。当初は他愛もないいたずらに能力を使っているだけだった彼らだが、そのふるまいは徐々にエスカレートしていき…!

ひとことで言うなら、ティーンエイジャーの鬱屈した内面を「超能力」というツールを用いることによっておもいっきり肥大化させ、その痛みや閉塞した感覚を描き出した、という感じの作品だ。プロットに関してはおおよそ予想の範囲内だったけれど、物語のクライマックス、主人公の少年が超能力で街を破壊し尽くし慟哭するシークエンスは、本当にどこまでも痛々しくて、見ていて胸が苦しくなった。人を強くすることができるのは、その人の内に育まれた自信だけで、その自信というやつは、成功体験を積み重ねていくことでしか醸成することのできないものなんだな…ということを強く感じさせられた。

(だから、少年が病床の母親に向かって「僕は強くなったよ」と無理して言うシーンのことをおもい出すと、ひどく悲しい気持ちにさせられてしまう。彼は最後まで、健全な自己愛や自尊心というものを手にすることができなかったのだ。自分は受け入れられている、認められている、価値のある存在である、という意識を、持つことができなかったのだ。)

本作の物語は、主人公の少年がいつも持ち歩いているビデオによって撮影されている、というフェイクドキュメンタリー的な手法によって描かれている。これによって、プロットが要請する「説明のためのシークエンス」をばっさりと端折っているところがとてもよかった。シンプルで直球なストーリーにはこのスピード感が合っているし、カメラによって主人公の危うさが冷徹に捉えられている、という感じがするのもよかった。


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