『族長の秋』/ガブリエル・ガルシア=マルケス

マルケスの代表作といえば、やはりノーベル文学賞受賞の『百年の孤独』ということになるのだろうけれど、作品の濃密さやイメージの強烈さ、文体のパワフルさ、ボリューム感ということでいえば、『族長の秋』もそれに勝るとも劣らないレベルの傑作だといえるだろう。物語の大枠はごくシンプル。カリブのとある国の独裁者が死に、その長い長い治世を終える。ハゲタカが群がり、牛たちが行き交うようになった大統領府の建物に押し入った人々は、そこであり得ないほど高齢の大統領の遺体と対面する。やがて物語は過去にさかのぼっていき、複数の語り手が自在に出入りするような形で、大統領にまつわるさまざまなエピソードが語られていく…!

今作についても、やはり文体のことに触れないわけにはいかないだろう。『百年の孤独』と同様、この小説にも、”退屈なつじつま合わせ”や”精緻な風景描写”、”読者と小説との接続をスムーズにするための手続き”などといったものは、ほとんど存在しない。あるのは、とめどなく溢れ続けるイメージたちと、無限に続くかとおもわれるような物語の生成運動ばかりであって、何ともとりとめがないのだ。また、物語の語り手にしたって、あるときは”全能の神の視点”、あるときは”カリブのとある国の民衆”、はたまたあるときは”大統領に寄り添った形の3人称”であり…という感じにひとときも落ち着くことがなく、これまた混沌、雑然としている。けれど、小説自体が決して読みにくくならないのは、作品の主軸になっているのがあくまで物語であり具体的なエピソードであるためだろう。本作におけるマルケスの文章自体は、むしろリーダブルなものだといっていい。*1

当時のここは、大統領府というより、むしろ騒々しい市場だった。人びとは、回廊でロバの背中から野菜や鳥かごを下ろしている、はだしの使用人たちを搔きわけて歩かねばならなかった。お上の慈悲という奇跡を期待しながら階段の下で丸くなって眠っていたけれど、腹をすかせた名付け子を連れた女たちの上を、それこそ飛び越えていかねばならなかった。花瓶のなかで一夜を過ごした花を新しいものと取り替えたり、床を磨いてみたり、バルコニーでカーペットをはたく枯れ枝の拍子に合わせて、はかない恋の歌などをうたったりしている、口の悪い愛妾たちが捨てる汚れ水を、器用に避けていかねばならなかった。それだけではない。メンドリがデスクの引き出しのなかに卵を産んでいるのを見つけて、一生を保証された小役人どもが大騒ぎをし、淫売と兵士たちがトイレのなかで用事をすませ、小鳥たちが鳴きくるい、のら犬どものが謁見の間でいがみ合いをおっぱじめるという、そんなありさまだった。いったい誰が誰なのか、さっぱり見当がつかなかった。扉が開きっぱなしのこの館がいったい何様のものなのか、それさえ定かではなかった。この途方もない混乱のなかでは、政府の中枢がどこに存在するのか、それを突き止めることは不可能だと思われた。しかも大統領府のあるじは、この市の凄まじい騒ぎにみずから加わるばかりか、それをあおりたて、思いどおりに操ってもいた。(p.16,17)

…とはいえ、作品の全編に渡って、ひたすらこんなテンションの文章が連ねられていくのは、やはりかなり異様ではある。そのあたりが、本作がいまいちマイナーな扱いを受けている理由なのだろう。

大統領の影武者は、己のアイデンティティを根こそぎ奪われた末に暗殺され、大統領が恋した女は、日蝕のさなかに闇に溶け込んで消える。大統領の腹心の将軍は、裏切りの罰として丸焼きにされ、大統領の母は、生きながら腐りゆく奇病に倒れる。大統領のただひとりの妻は、反乱分子の手で生きたまま犬に噛み殺され、大統領のもとで唯一権勢を振るった男は、血の粛清を繰り広げ、政敵の首を毎日いくつも大統領府に送りつける。作中で描かれるエピソードのすべてが、申し分なくむちゃくちゃで、残酷で、神話的な美しさに満ち満ちている。

*1:たとえば、マルグリット・デュラスの『ラ・マン(愛人)』のように、”抽象的なイメージの連なり”が主軸となっているタイプの小説というのは、なかなかリーダブルとは言いがたいようにおもう。そういった作品は、物語が読者の頭のなかで構築されるまでに、読者に大きな負担を強いるためだ。

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