『楽園への道』/マリオ・バルガス=リョサ(その2)

『楽園への道』には、ゴーギャンが絵を描くシーンがいくつか出てくるんだけど、どれもすごくかっこいい。絵を見なくても文章だけで伝わってくるものはいろいろとあるし、というか文章だけでも十分たのしいんだけど、やっぱり絵を見ればいろいろと発見があるし、他の解説と比べながら読んでみたりすると、その絵に対するバルガス=リョサの解釈とか、彼のおもい入れみたいなものが見えてくるようで、そんなのもおもしろい。

1892年にタヒチで描かれた「マナオ・トゥパパウ」という絵がある。

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ゴーギャンが、共に暮らしていた愛人のテハッアマナという女性をモデルに描いた作品だ。夜遅くに小屋に帰ってきたゴーギャンは、明かりをつけようとマッチをするのだが、暗闇の中でまどろんでいたテハッアマナは唐突な炎のゆらめきの出現におどろき、怯え、そこにマオリの墓地に住むという死霊、トゥパパウを見たのだった。

たとえば、TASCHENの『ポール・ゴーガン』に載っているこの絵の解説は、

裸のテフラが寝台に横たわっている。西洋人の好色な目はあるいはそれを期待しているかもしれないが、彼女は邪気の無さを装っているのではない。硬直した両足を強く締め付けている。両手を枕に当て、いつでもすぐさま飛び上がって逃げ出せるような格好である。またもや超自然なものが侵入してきたからである。光るものがちらほらと散らばる見通しの悪い背景に、なにか薄気味の悪い人物の横顔が浮かんで見える。トゥパパオ、死霊がうろついていることがわかる。楽園の闇に潜むトゥパパオは、熱帯の島国でもすべての生は死の胸に抱かれとられることを証明する。人間と自然の調和というテーマを表現するすべをゴーガンは心得ていたが、このときばかりは駆使できないのもしょうがない。(p.55)

という感じなのだけど、『楽園への道』ではというと、ゴーギャンがこの光景を見るところとか、絵を描くに至るまでの興奮っぷりなんかも、かなりたっぷりと描かれている。ちょっと引用してみる。

その光景は時が経過しても、彼の記憶にずっと留まりつづけることだろう――床に敷いた敷布団の上で、裸でうつ伏せになったテハッアマナが、丸みを帯びた尻を少し浮かせ、背中をやや曲げて、顔を半分彼のほうに向けながら、動物のようにひどく怯えた表情で、目も口も鼻も引きつらせたまま顔をしかめるようにして、彼を見つめていた。彼もぎくっとした。心臓がどきどきした。指先を火傷してしまったので、マッチを振り落とさなければならなかった。彼がもう一本マッチを擦ったときにも、娘は同じ姿勢で同じ表情のままで、恐怖で身体が硬直していた。(p.28,29)

結局のところ、死霊は完全に消滅したわけではなかった。その美しい過去のある部分は、宣教師や牧師が彼らに強要したキリスト教の衣服の下に見え隠れしていたのだ。/少なくともその神話はまだ生き残っていた。そのことを、おまえの腕の中で娘がうめくようにしてつぶやいたトゥパパウ、トゥパパウという言葉が証明していた。(p.30)

その作品の中では、野蛮人たちの頭の中のように、現実と幻想がひとつの真実を作り上げていた。生命と死、宗教性と願望が染みこんだどこか陰鬱な暗い真実。作品の下半分は客観的で写実的で、上半分は主観的で非現実的だったが、下半分と比べてけっして作り物っぽくはなかった。目に恐怖を浮かべ、口を歪めかけていなければ、裸の少女は猥褻な感じがしたかもしれない。けれども、少女が非常に意味ありげに尻をすくませているので、その恐怖は彼女の美しさを損なうことなく、より極立たせていた。人間の肉体の祭壇があり、その上で異教の残酷な神に捧げる野蛮な儀式が執り行なわれている。(p.32)

あまえは全体に完璧なハーモニーを与えることができたね、コケ。作品からは死者が奏でる音楽が流れていた。そして光が、緑がかった黄色のシーツとオレンジ色がかった黄色い花から発せられていた。(p.33)

うーん、テンション高いなー!ゴーギャンが絵を描いているシーンなんかも、もうとにかくドラマチックに描かれていて、あー、マリオ、この絵がすっごいすきなんだなー、ってよくわかる。

楽園への道 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-2) ゴーガン NBS-J (タッシェン・ニューベーシックアートシリーズ)

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