『新自由主義―その歴史的展開と現在』/デヴィッド・ハーヴェイ(その4)

新自由主義的改革に民衆を同意させるための根拠として、個人の自由、自立、選択、権利などといったキーワードが有効に機能していたということはわかった。では、新自由主義者たちが、そういった”聞こえのいい言葉”を利用しながらこの体制を広めてきた結果、いかなる事態が発生しているのだろうか?

 *

新自由主義のもとで生きるということは、資本蓄積に必要な一定の権利群を受け入れ服従するということを意味する。それゆえわれわれは、私的所有という個々人の不可譲の権利(企業は法の前では個人として定義されていることを想起してほしい)や利潤原理が、考えうるあらゆる他の不可譲の権利概念に優先するような社会に生きている。この権利体制(レジーム)の擁護者は、それが奨励する「ブルジョア的美徳」がなければ世界のすべての人の生活水準が悪化するだろうとまことしやかに主張する。(p.248,249)

“私的所有権や利潤原理が、他のどんな権利よりも優先される社会”を是とする新自由主義者は、市場とそこから発せられるシグナルこそが、あらゆるものの配分をもっとも適切に決定できる、と主張する。彼らの主張の根底にあるのは、あらゆるものは原則的に商品として扱われる、という理念だ。そこには飢餓も戦争も環境破壊も含まれれば、労働力、すなわち人間自身も含まれている。そして、人間を商品として扱うことでもたらされるのは――現在のこの世界を見れば明らかな通り――一部の人間への富の集中と、使い捨て労働者の大量発生である。以下、簡単に流れを追ってみる。

まず、労組をはじめとする労働者階級の諸機関の力が抑え込まれ、フレキシブルな労働市場が確立される。その一方で、国家は社会福祉の給付を縮減し、雇用構造の再編を誘導、過剰労働力を発生させる。こうすることで、市場における、労働に対する資本の支配が完成することになる。また、このとき、「個人責任制」というやつが、それまでは雇用者や国家の義務であったはずの社会的保護(年金、医療、労災補償etc.)に取って代わっている。個人は社会的保護を商品として購入することができるわけだが、それはもちろん、その価格の商品にに手が届くならば、という話だ。

このようにして個人化/無力化された労働者は、資本家の要望に基づいた、短期契約ばかりの労働市場に直面することになる。あまりに多くの人々が、最も安く従順な労働供給を競い合う、「底辺へ向かう競争」へと巻き込まれていくが、資本は地理的移動性を持っているので、(地理的移動性に制限のある)労働力をグローバルに支配することができる…というわけだ。

こういった、富と収入との見事な再配分こそが、新自由主義の主たる実績だと言えるだろう。このメカニズムのことを、「略奪による蓄積」と呼ぶハーヴェイは、新自由主義的体制への反論として、こんな風に語っている。

哲学的議論によって、この新自由主義的な権利体制が不正だと説得することは、私にはできそうもない。しかし、この権利体制への反論はきわめてシンプルだ。それを受け入れることは、それによる社会的・エコロジー的・政治的帰結がどのようなものであろうとも、終わりなき資本蓄積と経済成長という体制のもとで生きる他に道はないと認めることである。逆に、終わりなき資本蓄積が含意するのは、新自由主義的な権利体制が暴力によって(チリやイラクのように)、あるいは必要とあらば本源的蓄積(中国やロシアのように)を通じて、地理的に世界中に拡大しなければならないということである。どんな手段を講じてでも、私的所有権という不可譲の権利と利潤原理とが普遍的に確立されるだろう。これこそ、ブッシュが、アメリカは自由の領域を世界中に広げることに専心すると言った時に意味していたことなのである。(p.249)

新自由主義的権利体制を受け入れることは、全世界規模の「略奪による蓄積」を受け入れることであり、市場至上主義的な思考法をありとあらゆるものへと適用しようとすることである。それが「人類の富と福利とを最も増大させる」ものだなどと、誰に言うことができるだろう?

 *

ここからは、ちょっとだけ余談。新自由主義的権利体制を受け入れることは、「終わりなき資本蓄積と経済成長という体制のもとで生きる他に道はない」と認めること…この問題についてかんがえていると、俺は、カート・ヴォネガットの小説『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』をちょっとおもい出したりもする。作中のSF作家、キルゴア・トラウトは、こんなことを言っていた。

その問題とは、つまりこういうことですよ――いかにして役立たずの人間を愛するか?
いずれそのうちに、ほとんどすべての男女が、品物や食料やサービスやもっと多くの機会の生産者としても、また、経済学や工学や医学の分野の実用的なアイデア源としても、価値を失うときがやってくる。だから――もしわれわれが、人間を人間だから大切にするという理由と方法を見つけられなければ、そこで、これまでにもたびたび提案されてきたように、彼らを抹殺したほうがいい、ということになるんです(『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』/カート・ヴォネガット・ジュニア p.288)

新自由主義の論理は、労働力、すなわち人間自身をも商品とみなす。となると、商品として見なされた人間の価値は、市場におけるその価格だということになる。「役に立たないものには価値がない」という市場主義経済のかんがえは人間にまで敷衍され、「使えない」人、「役立たず」な人、「生産性の低い」人、「コストパフォーマンスの悪い」人は「価値が低い」、「価値がない」ということになってしまうわけだ。*1

新自由主義的な思考法を無反省に受け入れること、また、「それによる社会的・エコロジー的・政治的帰結がどのようなものであろうとも、終わりなき資本蓄積と経済成長という体制のもとで生きる他に道はない」と認めることは、だから、「人間を人間だから大切にする」などということは不可能である、と言っているのとほとんど同様だということになるんじゃないか?それってやっぱり、どうかんがえたっておかしいことなんじゃないか??…俺は直感的にはそんな風におもうのだけれど、これを論理的に説明することはできないような気もする(おそらく、論理という網では掬うことのできない、倫理の側の問題だからだろう)。

これは、ハーヴェイが言うところの「哲学的議論」の領域に入ってしまう内容かもしれないけれど、果たして、「価値がない」人間は「大切にされる必要がない」のか?そんなことはない、と言い切るためには、いったいどうすればいいのか??いまのところ、俺にはよくわからない。けれど、これはもう少し、気合を入れてかんがえ続けていかないといけないテーマだとはおもう。

*1:もちろん、労働力を商品とみなすのは新自由主義に限ったことではない。これは、市場主義経済そのものの問題とも言える。

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