きびしい裁判官

先日感想を書いた、ジョン・クラカワーの『荒野へ』に、

両親のことになると、子どもはとにかくきびしい裁判官になりがちで、あまり温情的な処置をとろうとしない。(p.198)

父は平凡な人間だった。それも、とんでもなく平凡な人間であることがわかったのだ。私にはとても許せなかった。(p.238)

なんて文章があって、あー、そうなんだよ。と、こころのなかで深くうなずいたのだった。両親のまえでは、いつも自分は子供になっている。って、いや、もともと子供なんだからそれはあたりまえなんだけど、両親に対するときって、この歳になっても自分は“子供”で親は“親”である、っていうどこか絶対的な権力構造のある状況のなかに、知らないうちに入り込んでいるような――じっさいはそうでなかったとしても――きぶんになる。

それで、そういう状況のなかで親の欠点なんかを見つけると、必要以上にそれが気になって、許せなくなるのだ。親も自分も同じような(大して変わりのない)人間である、っていう事実から、知らず目を背けてしまっている、っていうか。そして、そんなことをかんがえちゃう自分って、やっぱりコドモなんだなー、とかおもったり。自分がどうしようもなく親の子供だ、っていうのが事実としてあるからこそ、コドモ扱いされることに反発をおぼえもするし、また逆に、親にも完璧さ(というか、ある種の理想化された像、みたいなやつ)を求めてしまうわけで。まあ、そんなことを正月、実家に帰っていたときにおもったのだった。

荒野へ (集英社文庫)

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