『二十四時間の情事』

二十四時間の情事 [DVD]

これは大学のゼミで見た。原題は、『Hiroshima, mon amour』。

1959年、戦争の傷跡を残しつつも、復興の兆しを見せてきている広島が舞台。まともに描かれる登場人物は、日本人の建築家の男と、フランス人の女優(反戦映画のロケに来ている)の2人だけだ。映画のほとんど全編が、2人の主人公の、お互いへの語りかけ――過去の記憶を思い起こそうとする過程――で占められている。彼らは“二十四時間の情事”のなかで、それぞれの過去の記憶のなかから、現在の2人の関係を支えることができそうな、何かしらの感情や記憶の一致(や類似)を見つけ出そうと試みるけれど、その試みが成功することはない。彼らは2人とも、過去の記憶につきまとわれている。

決して完全には語りえないもの、どうしたって他者には(あるいは自分自身にさえも)うまく表現できないものとして、過去というものがある。この映画がとりあつかっているのは、その探求についてだ。テーマは記憶そのもの、というか、ある記憶を思い起こし、語ろうとする過程そのものにある。もう取り戻すことのできないもの、過去それ自体、というよりも、過去についての記憶、思い出そうとする試みのほうが、ある種のノスタルジアのような感情の主体となっている。

2人の主人公たちは、自分たちの過去が孕む問題をのりこえることはできない。彼らの過去の記憶は、彼らの現在を規定する、彼らにはまったく逃れることのできない重圧として描かれている。男の過去の記憶には、原爆被害の恐怖、呵責の意識といった、イデオロギー的な問題が含まれているが、女の記憶はドイツ兵との成就することのなかった恋愛と、その後非国民扱いされることへの恐れ、悲しみ、怒りという、どちらかといえば個人的な色彩の強いものだ。両者の記憶の恐怖は、映画のなかでは(暗黙のうちに)同じような意味合いを持つものとして描かれている。歴史的な、人間の愚かさや残虐さというべきものと、ある個人的な悲しみとが、いわば同質のものとして扱われている。それは逆に言えば、個人的な記憶が歴史的記憶と比するほどの強度をもつことの証明でもある(当たりまえのことだが)。

語りきれない悲しみや恐怖とは、冷徹なまでの抑制によってはじめて、その内実をどうにかぎりぎりの線で描き出すことが可能になるものなのだろうけれど(そういう主張を感じた)、この映画でその試みが十分に成功しているとはいいがたい、とおもった。たとえば、1959年の、あまりにも現実味に溢れ、安っぽい夜の広島の光景と、女の故郷であるフランスの田舎町、ヌヴェールの幻想的ともいうべき風景は対比されるべきものとして映し出される。広島は淡々としたタッチで、ヌヴェールは審美的要素を重視して描くことで、前者はどちらかといえば醜悪なものとして、後者は穢れないうつくしさをもったものとして表現されている。また、2人が自らの過去を語るその台詞は、ややもすれば詠い上げるような調子を帯びていて(モノローグにも近い)、それが作品の詩的な印象をぐっと強めているのだけれど、その凝りすぎた感じ、よくでき過ぎた構造のなかで、いちばん肝心な、見るものに訴えかけるちからは失われているようにおもえた。

語りえないことをなんとか表現しようとしているのに、そこには、どうにか語りたいという欲求、力強さのようなものが感じられない。ぎりぎりに切羽詰った感じがない。形式的には非常に洗練され、完成された印象があるのに、いまいち吸引力には欠ける、というか。すごく緊張感のある映画なのに、なにに緊張しているのかよくわからない、という、なんだかおかしな感想をもってしまった。


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