『方法序説』/ルネ・デカルト(その5)

形而上の問題(コギトと神の存在証明)について語ったあと、デカルトは自然界の諸問題へも手を伸ばしている。第一原理はもうばっちり確立できたのだから、そこから演繹的にさまざまな真理を導いていっちゃうよ俺、というわけだ。本書の後半では、当時、彼が公表できずにいたという『世界論』なる壮大な論文の概要と、心臓の運動、人間/動物の違い、なんかについて簡単に触れていてるのだけれど、このあたりは、正直言って読んでいてあまり盛り上がらない。へえーなるほどね、って得心できる論理的な道筋があまり多くないからだ。ただ、デカルトの提唱する自然学は、当時のスコラ学者たちが信奉していたアリストテレス自然学と底触してしまう部分が多かったらしく、1933年――本書が出版される4年前――にガリレイが断罪されたことなんかも相まって、ここではずいぶんとオブラートに包んだ書き方がなされている。そういう意味でちょっとおもしろいところは、いくつかある。

たとえば、こんなところ。

わたしの判断をいっそう自由に言え、しかもその際、学者のあいだで受け入れられている見解に賛成したり反対したりしないですむよう、わたしはこの現世界はそっくり学者たちの論議にゆだねてしまい、ただ次のような新しい世界で起こるはずのことだけを語ろうと決心した。仮に神が今、想像空間のどこかに新しい世界を構成するのに十分な物質を創造したとし、その物質のさまざまな部分をさまざまに無秩序に揺り動かして、詩人が想像しうるほどの混沌たるカオスをつくりだしたとする。その後はただ、通常の協力だけを自然に与え、神自身が定めた法則に従って自然が動くにまかせた場合の、この新しい世界である。(p.59)

次にわたしは、自然の諸法則が何かを示した。そして、神の無限の完全性という原理のみに論拠を置き、少しでも疑いをはさむ余地のある法則はすべてこれを証明しようと努め、それらの法則は、神が多数の世界を創造したとしても、それが守られないような世界は一つとしてありえないような法則であることを示そうと努めた。(p.60)

しかしわたしは、これらすべてのことから、われわれの住むこの世界が、わたしの提示したような具合に創造されたと推論するつもりはなかった。というのも、神が最初からこの世界をそれがあるべき姿にしたというほうが、はるかに真実らしいからだ。けれども、神がいまこの世界を維持している働きは、神が世界を創造したときの働きとまったく同じだということは確実であり、それは神学者のあいだでも共通に受け入れられている意見である。(P.62)

うーん、なかなかにややこしい。こことは別の、仮定の世界のことをデカルトは語っているのだけれど、その世界における自然の諸法則とは、”いま存在しているこの世界の創造を説明するための仮説”として用いたとしてもじゅうぶんに機能し得るもの、だと言うのだ。

もちろん、この世界は神が創ったものであり、デカルトとしてもその点についてはじゅうぶん同意しているのだけれど、彼の提唱する宇宙生成論には、よくよくかんがえてみれば聖書の記述と相容れないような部分がいくつも含まれている。これでは発表するのに都合がよろしくないよね、ってことで、「これは現実の世界のことではありませんよ…」というエクスキューズを入れた上で、この論についていはあくまでもひとつの仮説、ひとつの寓話として記載するに留めることにした、ということらしい。このあたり、事情はわかるけれど、方法的懐疑や第一原理の証明について語っていたときのデカルトと比べてしまうと、なんとも切れ味がなくて、まどろっこしいなーという感じがしてしまう。

方法序説 (岩波文庫)

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