「ユダヤ人問題によせて」/カール・マルクス

「ユダヤ人問題によせて」/カール・マルクス

ブルーノ・バウアーの2つの論文に関する書評。ごく短い論考ではあるのだけれど、マルクスは、バウアーの意見を叩き台としつつも、その限界点を指摘することで独自の主張を展開していく…というややこしいことをしようとしているので、全体的にちょっと飲み込みにくい文章になっている。

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ユダヤ教徒の社会的/政治的な解放を求める声が日に日に強まってくるなか、青年ヘーゲル派の哲学者であるバウアーは、その著作内で以下のようなことを述べていたという。

  • ユダヤ教徒の解放が必要というのはまったくその通りだが、政治的抑圧の対象となっているのはユダヤ人というよりもむしろ、全てのドイツ人民である。であるからして、ユダヤ教徒の解放の問題というのは、全ドイツ人民の政治的解放についての問題としてかんがえていく必要がある。「われわれは、他人を解放しうる以前に、自分自身を解放しなければならない。」
  • ドイツ人民の解放のためには、国家がキリスト教というしがらみを捨てること、そして人民が特定の宗教から自由な意識を持つことが必要である。「バウアーの考えでは、ユダヤ人問題はドイツの特殊事情には依存しない一般的な意義をもっている。それは国家に対する宗教の関係の問題、宗教的偏執と政治的解放との矛盾の問題である。政治的に解放されるよう欲しているユダヤ人に対しても、また他のものを解放し自分も解放されるべき国家に対しても、宗教から解放されることが前提条件として出されるのである。」

バウアーの主張とは、「公民としての解放」のために、ユダヤ人はユダヤ教を、その他のドイツ人はキリスト教を廃棄する必要がある、といったものである(当時のドイツの国教はキリスト教)。宗教を前提として成立している国家は、真の国家とも現実の国家とも言うことはできない、というわけだ。

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このようなバウアーの論旨に触れた上で、マルクスは、バウアーが述べているところの「政治的解放」というのは単に政治という限られた枠組みから人民を解放するというだけのことでしかなく、それだけでは不十分である、求めるべくは、より大きな枠組みであるところの「人間的解放」なのではないか、と言う。革命によって国家から宗教を政治的に切り離したとしても、それは宗教からの人間的解放が実現したこととは違うだろう、ということだ。

政治的革命は、市民生活をその構成部分に解体しはするが、これらの構成部分そのものを革命的に変革し批判することはしない。政治的革命は市民社会、すなわち欲求と労働と私的利益と利的権利の世界に対し、自分の存立の基礎に対するように、つまり何かそれ以上基礎づけられない前提、したがって自分の自然的土台に対するように、ふるまうのである。(p.52)

結局のところ、市民社会の成員としての人間が、本来の人間とみなされ、公民〔citoyen〕とは区別された人間〔homme〕とみなされる。なぜなら、政治的人間がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず、比喩的な精神的な人格としての人間であるのに対し、市民社会の成員としての人間は、感性的な、個体的な、もっとも身近なあり方における人間だからである。現実の人間は利己的な個人の姿においてはじめて認められ、真の人間は抽象的な公民〔citoyen〕の姿においてはじめて認められるのである。(p.52)

革命による「政治的解放」によって生み出されたのは、”市民社会(=ブルジョア社会)のメンバーとしての人間”というものを、”人間の本来的な姿”だと見なそうとするような社会だったのではないか。「人間的解放」を真に完遂し、各個人が「類的存在」となるためには、「利己的な個人」によって構成されるところの市民社会そのものを改革する必要があるはずだろう、というのがマルクスの主張だと言えるだろう。

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だいたい、いま、この社会においてユダヤ教とはいったいどのような性質のものであると見なされているか、かんがえてみたまえ、とマルクスは言う。「実際的な欲求」、「私利」、「あくどい商売」、「貨幣」などといった単語がすぐにおもい浮かんでくるだろう…だが、これらは、まさに現代市民社会の中心、根幹の部分にある性質とまったく同一のものではないか?

つまり、革命による「政治的解放」によってもたらされたのは、世に言うところのユダヤ教的性質、すなわち利己主義と自己利益の追求だった、ということなのではないか?…そうだとすれば、ユダヤ教の利益追求的な性質を市民社会が非難することはできない――それはまさに自分自身を非難することであるのだから――し、ユダヤ教的な性質を考察することはこの社会の性質を考察することに他ならない、ということになるのではないか??

そういう意味で、マルクスは、

社会がユダヤ教の経験的な本質であるあくどい商売とその諸前提を廃棄することに成功するやいなや、ユダヤ人というものはありえないことになる。というのは、もはやユダヤ人の意識は何らの対象ももたなくなるからであり、ユダヤ教の主観的基礎である実際的欲求が人間化されてしまうからであり、人間の個人的・感性的あり方とその類的あり方との衝突が揚棄されてしまうからである。
ユダヤ人の社会的解放は、ユダヤ教からの社会の解放である。(p.67)

と述べているわけだ。このパラグラフだけを取り出すと、単純な反ユダヤ主義、ユダヤ人差別のように読めてしまうかもしれないけれど、彼が行っているのはまったくそういうことではない。マルクスがここで書いているのは、近代市民社会からの人間的解放が必要だよね、という話なのだ。

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