『ヴェニスの商人』/ウィリアム・シェイクスピア

『ヴェニスの商人』/ウィリアム・シェイクスピア

どうも最近だと、「シャイロックという人物の深みが…」とか、「シャイロックという人物の悲劇性が…」とか、「シャイロックという人物はユダヤ人のステレオタイプなどといったものではなく…」といったような、シャイロックの被抑圧っぷりに注目したシリアスめな解釈、現代的なヒューマニズム重視の解釈がなされることの多いようにおもえる『ヴェニスの商人』だけど(もちろん、ユダヤ人には目がないってのか?のシークエンスは、周到に計算された、目の覚めるようなクライマックスのひとつであることに疑いはないとはいえ)、ひさびさに読み返してみると、いやいや、やっぱりこれはあくまでも喜劇的な感覚というのがベースにある作品なんだな…と俺は感じた。

作品の基本的な構造としては、アントーニオ側の原理(友愛、慈悲、共同体的なもの)vsシャイロック側の原理(契約、資本、経済的なもの)というものがあるのだけれど、アントーニオが裁判で最終的に勝利できるのは、”友愛”や”慈悲”の力によるものではない。ポーシャという身内の人間が活躍するところはたしかに”友愛”的だけれど、彼女がここで利用するのは、「証文の不備」という”契約”の力、すなわちシャイロックの側の原理なのだ。

この二律背反な感じがおもしろい。シャイロックの仕掛けた罠をかいくぐる上では、アントーニオたちの信ずる”友愛”や”慈悲”といったものはじつはまったくの役不足であって、シャイロック側の理論を利用することではじめて勝利が得られるようになった、というわけだ。

また、裁判が無事に終わった後、ポーシャとネリッサは、それぞれの夫から「誓いの指輪」を回収することに成功する。このエピソードは、喜劇としての本作の最後の盛り上がりに向けて機能するわけだけれど、彼女たちが夫から指輪を奪うために利用する理屈というのもまた、「あなたは何でもくれると言ったくせに、やっぱりこの指輪だけはダメだというのは不正直ではないか」という、重箱の隅をつつくようなシャイロック側の原理に属するものなのだ。

そうして、物語のエンディングにおいて、指輪は”共同体”の原理のもと、夫たちへと無事返還され、作品はたのしく幕引きとなる。この指輪のエピソード自体は、アントーニオたち共同体側の勝利を祝うジョーク(あえてシャイロック側の原理を使った、軽いおふざけ)として見るのが自然だと言えそうな気がするけれど、シャイロック側原理による共同体原理側への静かなる侵食、としてかんがえてみても、ちょっとおもしろいかもしれないなー、なんておもったりもした。

いや、うーん、やっぱり違うかな。単に、ポーシャのように十分に”友愛”と知恵とを併せ持った人物であれば、シャイロック側の原理でも使いこなすことができるよ、というだけの話なのかも。…ま、ともあれ、こうしてちょっとかんがえるだけでじつにいろいろな解釈が引き出せてしまうところがシェイクスピアのおもしろいところだと言えるだろう。

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