『ザ・ロード』/コーマック・マッカーシー

ザ・ロード

何らかの理由によって破壊しつくされ、荒廃しきった近未来の世界を舞台に、父と少年、2人のあてのない旅のようすが描かれる。マッカーシーの小説ってわりと宗教的っていうか、神とか運命のような人知を超えたところにある力について触れられていることが多いとおもうのだけど、SF的な設定の今作は、近未来の神話のような形の物語になっている。

植物は枯れ、数少ない生存者は略奪や殺戮を繰り返し、空を覆う灰によって太陽の光すら失われた世界をとぼとぼと歩き続ける親子には、何の希望も与えられていない。明日の食料を見つけられるかもはっきりしなければ、寒さに凍えてしまうかもしれないし、いつ追い剥ぎや人肉を喰らう野蛮人の襲撃を受けるかもわからないわけで、小説内の描写や会話はおしなべて暗く、どんよりとしている。一文一文には詩的な美しさもあるのだけど、そこにはことごとく絶望って気分が押し込められているようで、読んでいてなんとも息苦しくなる。

この道には神の言葉を伝える人間が一人もいない。みんなおれを残して消え去り世界を一緒に連れていってしまった。そこで問う。今後存在しないものは今まで一度も存在しなかったものとどう違う?(p.29)

親子2人に与えられているのはそんな光のない世界であり生であるわけで、だから彼らはもう死んだほうが楽に決まってる、もう死んでしまいたい、と何度もかんがえる。だが彼らが自らの手で命を断とうとすることは、最後までない。それはなぜか?っていうのが、俺が小説を読んでいて何より気になったことだった。状況はあまりにも彼らに不利過ぎるし、希望のかけらも、希望の残りかすすらもこの世界には存在していないようなのに、なぜだろう?未来への希望がまったくないところでも、人は生き続けることができるのだろうか??

明確な答えなどあるはずもないのだけど、彼らがその極限状況の旅路のなかで保ち続けている、”火を運ぶ”というイメージがそのひとつのヒントになっているようにはおもえる。

パパと一緒にいたいよ。

それは無理だ。

お願いだから。

駄目だ。おまえは火を運ばなくちゃいけない。

どうやったらいいかわからないよ。

いやわかるはずだ。

ほんとにあるの?その火って?

あるんだ。

どこにあるの?どこにあるのかぼく知らないよ。

いや知ってる。それはお前の中にある。前からずっとあった。パパには見える。(p.252,253)

“火”とはいったい何なのか。ここで父親は、お前のなかにある、パパには見える、なんて断定してはいるけど、じっさいのところ彼に”火”が見えているわけではない。どんな比喩的な飛躍をもってしても、そんなもの――人を温めてくれるもの、赤々と燃え上がるもの、生命力に満ちたもの、ものを動かす原動力になるようなもの――を見出せるような状況ではないのだ。それでも、彼は何度も何度も少年に言い聞かせる。あきらめちゃだめだ、泣いたらだめだ、もう死ぬなんておもったらだめだ、と。

彼の言葉には、自分自身を鼓舞するための試み、自分に対する言い聞かせ、といった意味合いがあったに違いない。けれど、そこには同時に、神無き世界における、やぶれかぶれな信仰の形があるようにも感じられる。いや、信仰というよりは信念というか、不安と苦痛に満ちた真っ暗な道を照らすためにどうしても必要な何かを探そうとする意思、それなしではやっていけない生きるよすがのようなものを言葉で無理やりながら産み出そうとするおもい、とでも言ったらいいだろうか。

そんな意志、そんなおもいを運ぶことができる、あるいはそれを誰かに受け渡すことができるかもしれない、と未来も希望も根拠もないところでとにかく信じてみること、それがこの冷たく灰に覆われた世界を照らす唯一の”火”になっているんじゃないだろうか。そして、それは逆にかんがえれてみれば、”火”を完全に見失ってしまったときにこそ人は自らの命を断とうとする、ということであるのかもしれない。

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