『多読術』/松岡正剛

多読術 (ちくまプリマー新書)

会社に入ってからというもの、なかなか本が読めなくていらいらしていた。忙しくて時間がぜんぜんない、っていうわけじゃないのだけど(時間はつくればいい)、気持ちがどうにも読書のほうに向いていかないような感じで。でもやっぱり、長いあいだちゃんと本を読んでいないと、読書用の集中力とか本に潜っていくための力、筋力みたいなものが落ちていく気はしていて、それで最近はリハビリ的に軽い本を読んだりしていることが多い。

そんななかで、先日買って一息で読んだこの本は、俺の読書したい欲を盛り上げるのになかなか貢献してくれた。タイトル通り、編集工学で有名な松岡正剛が読書についてのいろいろを語っている一冊だ。

読書する、ってことに関する自分のかんがえを整理する上でとくによかったのは、

読書というのは、書いてあることと自分が感じることとが「まざる」ということなんです。これは分離できません。(p.76)

読書は著者が書いたことを理解するためだけにあるのではなく、一種のコラボレーションなんです。/読書は「自己編集」であって、かつ「相互編集」なのです。(p.77)

読書は、現状の混乱している思考や表現の流れを整えてくれるものだと確信していることです。「癒し」というのではなくて、ぼくはアライアメント、すなわち「整流」というふうに言っています。/なぜなら、読書は著者の書いていることを解釈するだけが読書ではなく、すでに説明してきたように相互編集なのですから、そこでアライアメントがおこるんですね。(p.164,165)

というあたり。そうなんだよなー、読書っていうのは、読み手が単に本の内容を受容する、ってことだけに留まるものじゃない。そうじゃなくて、本と読者とのあいだには常に双方向的な流れがあるはずなんだ。そういえば、作家のリチャード・パワーズはこんな風に述べていた。

読むという行為において起きるのは、誰か他人の物語と向き合うということだと思う。自分のものではない、他人の物語なんだけど、語り直すという営みを通じて、それに参加していくわけです。よい読者も読みながらその本を翻訳しているのだ、という考え方はまったく同感ですね。たとえ自分の母語で読んでいても、そうですよね。

/自分の言語であっても、やはり翻訳しているのです。それまで全然知らなかった物語を、これなら知っていると思える物語に訳している。そして、それと同時に、外から入ってくるその物語を受け入れるために、自分の物語、自分という物語も翻訳しているのです。他人の物語を理解するために、自分の物語を書き換えるわけです。(『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』p.144,145)

こういう文章を読んでいると、奮い立たされるような、勇気が出てくるような気がするのだけど、それはやっぱり、読書っていうある意味孤独な行為のなかに、他者との複雑なコミュニケーションのありようが内包されている、って感じさせてくれるからなのかな、とおもう。他人の物語を受け入れ、同時に自らの物語を上書きする、読書がそんなややこしいコミュニケーションの一形態であるからこそ、わけがわからなかったり退屈だったり傷つけられたり、あるいはものすごくおもしろかったり感銘を受けたりするんじゃないか。

読書はそもそもリスクを伴うものなんです。それが読書です。ですから、本を読めばその本が自分を応援してくれると思いすぎないことです。背信もする。裏切りもする。負担を負わせもする。それが読書です。だから、おもしろい。(p.140)

ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち

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    • hagyirokawa
    • 2009-07/10 1:03pm

    >他者との複雑なコミュニケーションのありようが内包されている

    まさしく、そのとおりだと思います!

    社会人の方だったんですね。お仕事頑張って下さい。

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