『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』/村上春樹

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』/村上春樹

村上春樹の新作。登場人物たちの哀しみや痛みにそっと寄り添い、励まそうとするような、美しい作品だった。前作『1Q84』のような大作でないこともあってか、本編に直接関係のないエピソードや息休めのようなパートが存在しないため、全体的にすっきりとして、必要不可欠な部分のみで作品が完成しているような印象を受けた。かつてたしかに存在していたはずなのに失われてしまった美しさと、その喪失による癒し難い痛みについて、そして、その痛苦を受け入れ、生き延びていくということ、求めていくということについての物語。

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今作の基本的なトーンというのは、いままでの村上の小説を読んできた読者にとってはおなじみのものだ。主人公の多崎つくるは、(例によって)内向的で自己完結的、他者と深く関わることのない生活を送っており、生きることに対して積極的な関心を持っていない。とはいえ、彼は、そういった自分のありようについて、疑問を抱いてもいる。おれは無個性で空っぽで、誰かに対して差し出せるものなど何も持っていない。そんな人間に何の価値があるのだろう?そんな人間を誰が必要とするだろう??そんな歯がゆさと悲しみと、諦めとを感じている。

そんな彼を(例によって)ちょっぴりミステリアスな女性キャラクターが「巡礼」の旅へと誘う。その旅のなかで、つくるは、忘れ去ろうとしてきた過去の傷や謎と向き合い、自身のあり方を問い直すようになっていく。しかし、それは単純な癒しの経験というわけではない。長いあいだ未解決のままにしてきた問題と改めて対峙するということは、問題を解決できなかったという事実を認め、それを受け入れるということでもある。だから、「巡礼」の旅のなかで行われるのは、自身の未成熟や欠陥を改めて実感し、そのような人間である自分自身を、自分自身が行なってきた行為を、自分自身の歴史を改めて認識し直すというようなことになる。それは必ずしもつくるが「生きることに積極的な関心を取り戻す」ことに繋がっているわけではないし、彼の抱える問題の解決や幸福にまで一直線に結びついているものでもない。

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いままでの村上作品の多くで描かれてきたように、生きるということは、絶えず何かを失い続けることでもある。その痛みを避けることはできないが、だからといって、痛みを伴う過去を「なかったこと」にしてしまうこともまた不可能だ。作中、「記憶を隠すことはできても、それがもたらした歴史を消すことはできない」というフレーズが何度も反復される通り、どんなことであれ、一度起きてしまったことをゼロにすることはできないのだ。ある人が、人生のあるポイントで大きな傷を負う。彼はその傷を隠し、忘れ去ろうとする。彼の表面からは傷が消える。一見、すべてが元に戻ったかのように見える。ではそのとき、彼の人生はどうなっているのか?彼の人生は「無傷の人生」ではなく、「傷を隠した人生」になっている、というわけだ。

人は誰しも、ひとりひとりで、そうした喪失感や傷を抱えたまま生きていかなくてはならない。それは言ってみれば、ある種の宿命である。だが、もし、そうした痛みを他の誰かと共鳴させ、分かち合うことができたならば、その人とのあいだには何よりも強い本当の結びつきが生まれるのではないか、そして、そういった宿命を受け入れ、本当の結びつきを求め続けていくということにもまた、人間の営みの美しさがあるのではないか…といったことが、本作の中心的なモチーフだと言うことができるだろう。

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まあそういうわけで、本作の基調となっているのは、毎度おなじみの「哀しみ」や「切なさ」、「喪失感」、「悔恨」、「メランコリー」といった情感だということになる。取り扱われるテーマにしても、上記のような喪失/回復、赦し/再生といった古典的なものだし、複雑なプロットやドライブ感溢れるストーリー展開といったものも本作とは無縁だ。独創的な比喩表現も、どちらかといえば控え目になっている。

だが、そういったオーソドックスで派手さのない要素たちが、前作よりさらに研ぎ澄まされた、静かな三人称の文体――一見、ふつうのリアリズムのようだけれど、これはなかなかマジカルな効果を持った文体だ――と組み合わせられることで、本作は、単なる共感しやすい「喪失感」の表現であることを越え、どこか瞑想的でノスタルジアを感じさせる、祈りのような雰囲気を作り出すことに成功しているようにおもえる。(物語のクライマックスとなる、フィンランドのシーンのしんとした美しさは本当に素晴らしい。)また、登場人物の心情や作品のモチーフについて、これまでになく”説明的”な箇所が増えているのも本作の特徴と言えるだろうけれど、語られるべきことがストレートに語られていることで、物語全体の印象がまっすぐで、力強いものになっているように感じられた。圧倒されるような作品ではなかったけれど、ここ数年の村上の長編のなかではいちばん優しく、パーソナルな温もりのある小説だったようにおもう。

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