『チェルシーホテル』

チェルシーホテル [DVD]

イーサン・ホーク監督。これは俺のとてもすきな映画なのだけど、人によってはものすごく退屈な映画におもわれることもおおいようなので、今日はこいつをレコメンドすべく、(かどうかはちょっとアレだけど…)書いてみようとおもう。

舞台はニューヨーク、マンハッタン西23丁目にあるチェルシーホテル。マーク・トゥエイン、O・ヘンリー、ウィリアム・バロウズ、といった作家たち、そしてボブ・ディラン、ジミ・ヘンドリックス、シド&ナンシー、アンディ・ウォーホールら数おおくのミュージシャン、芸術家たちが滞在したことでよく知られているところだ。この映画では、彼らをおぼろげに象徴するようなキャラクターたち――詩人志望のウェイトレス、初老のアル中の作家、ミュージシャンをめざして都会にやってきた兄ちゃんたち、チェルシーホテルの亡霊についての詩をエレベーターのなかで詠みまくるぶっとんだじいさん、売れない画家、”ジェラス・ガイ”をしぶく歌いあげるシンガー、といったアーティスト(志望)たち――が暮らしている。それぞれの住人は、芸術家として生きたいと夢見たり、あるいはネガティブに沈み込んで人に当たりちらしたりしながら、詩を詠み、小説を書き、歌い、恋人をうたがい、噛みあわない会話を繰りかえし、すれ違いつづける。誰も、どこにも行けないし、なにも変わらない。そんな諦念が漂っている。

映画は、そんなチェルシーホテルに暮らす人々の、それぞれの日常の断片を、シャッフルするように見せていくことで進行していく。しかしそれら断片は完結した物語として語られないし、ドラマ性が少なく、ほとんど物語の体裁をなしていないものばかりだ。だから、ここにはストーリーの快感やひといきに収束するカタルシスといったものは存在しない。あるのは、どうにも噛みあわず、ひたすらすれちがう、住人たちの会話の断片ばかりだ。

ホテルの住人たちの背景や人間関係がくわしく具体的に語られることはない。彼らのことばは独白、会話、あるいは詩のようなかたちで映画のなかにたえず溢れているのだが、それらはあくまで断片的であり、そしてまた彼らの恣意性をつよく意識させるものだ。たとえば、こういう因果関係のせいでこういう人間になりました、みたいな解説はまったくない。そこには観客が解釈をおこなう余地はいくらでもある。しかし、決してこうだと決めつけることはできない。観客は自由に彼らの背景の物語を想像することはできるが、答えはあたえられていないし、答えといえる答えがあるわけでもない。答えだとかんがえられているものは、それは単にある因果関係という網の目に引っかかったためにいかにもそれらしく見えているというだけで、実際の姿だというわけではない。

観客は、それら投げ出されたことばたちの断片を聴き、住人たちの生活の断片を見る。そのとき観客は、住人たちやその物語に一体化したり、入り込むことはできず、じっさいに他人の話を聴いているときのような、他人のようすをながめているような感覚になる。彼らはあくまで他人であり、彼らの恣意的な意見を述べ、恣意的な愛を語るばかりだからだ。彼らの内面はやはり推しはかることしかできない。彼らの物語の断片の解釈は、観客一人一人の恣意性に任せられているのだ。

この映画でおもしろいのは、登場人物たちが徹底的に恣意性をもった、よくわからない他人、というものとして一貫して描かれているからではないか、という気がする。おおくの物語において、人の恣意性にはさまざまな因果関係などの所謂理由づけ、がおこなわれる。作者は登場人物の個別性や恣意性を意識するあまり、作者の意図や恣意によって因果関係をくっつけてしまう。もちろん、そうした物語はそこがおもしろいのであって、読者は作者の技術やかんがえに舌を巻いたり感動したりする。チェルシーホテルにおいては作者の意図は見出せない、というわけではないけれど、ほとんどはっきりしない。せいぜいいえるのは、これ、という主人公や物語をたてずに複数の語りが交錯することで舞台としてのホテルというものを描きだした、というくらいだろう。

そのような複数の語り、ひとつひとつは物語ともいえないような断片たちだが、しかしそれらがポリフォニックに、多層的に、ごくゆるやかな繋がりをもって描かれることで、なにかが浮かび上がってくる。それを言葉にするのはむずかしい。多層性を解釈してしまうことになるからだ。だが、それはある種の現実のように見える。いや、現実にはこのような多層性を感じられることは稀であるから(人はすぐに物語をつくって、解釈しようとするのだから)これこそが芸術によってはじめて描きだせる、現実の多様性というものかもしれない。

この映画にはたくさんのことばが溢れている、と書いたけれど、しかし、この映画には、全体を象徴したり包括したりするような、印象的なことばはない。映画を見おわったあと、印象に残っているのはもっと漠然とした空気、や感じ、になってくる。それはこの断片的な構成に拠るものだといえるだろう。あるフレーズをつよく印象づけるためには、物語の輪郭をくっきりと描き出さなくてはならない。もしそのようにすれば、他人の恣意的な解釈をしての話、を聴いているような感覚はこの映画から失われてしまうだろう。

人はだれか他人のことばを聴いたとき、それを恣意的に感じ、解釈することしかできない。この映画の登場人物たちももちろん同様だ。どうあっても、正確に「他人がどうおもっているのか」を知ることはできない。自分が「おもっている、感じている」らしいことを他人に当てはめて、他人のおもいを感じようとすることしかできない。同様に、私たちは自分自身の「ほんとうのおもい」なるものについても確信をもって語れることはない。あらゆる事象はことばに変換された瞬間に、言語という体系に組み込まれるからだ。そこでは私たちが感じていた何かの感じをそのままあらわすことはできず、あくまで言語というシステムのなかでの因果関係にもとづいた「おもい」が表現されることになる。

だが、それは空しいことではなくて、ことばによるコミュニケーションとは、そもそもそういうものなのではないか。だからたとえば行間を読む、というようないいかたがあるし、人はことばによって表現しきれないものをなんとか表現しようと試み、ひたすらにことばを重ねていくしかない。

映画のほとんどのシーンで、人物たちは必ずだれかと一緒にいる。どんなにテンションが低くても。彼らのことばはいつもすれちがうが、でもそこには他人のおもいを感じたい、他人とつながりたい、というおもいがある。なんだかんだいっても、人と人とのコミュニケーションなんていうのは不恰好なものだ。些細なことでかんたんに傷つけあったりするし、おまけに相手の気持ちはいつまでたってもわからない。しかしそうだからこそ、そこには切実さがあるし、想像力や寛容さが大事になってくる。そんなテーマが、チェルシーホテルの、コミュニケーションがひたすら上手くとれない住民たちの姿に映し出されている。この映画は、彼らの不恰好さを非難するわけでも、賛美するわけでもない。ただ、そういうなかでやっていかなければならない、というある種の諦念と、あたたかい寛容さのある視点でもって、彼らを描きだしている。だから彼らの姿はうつくしい。そのうつくしさは、人間のコミュニケーションの不完全さをじゅうぶん感じとった上で、それでもできればポジティブになんとかやっていきたい、というおもいを肯定するうつくしさなのではないか。


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