「外套」/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

『鼻/外套/査察官』/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

先日エントリを書いた『貧しき人びと』のパロディ元である、ゴーゴリの「外套」をひさびさに読み返してみた。光文社古典新訳文庫に収録されているのは浦雅春の訳で、なんと全編が落語調の文章になっている。文章の軽妙さが”いわゆる古典っぽさ”を軽減している感はあるけれど、まあゴーゴリならこういうのもありだよね、っておもえるし、とくに違和感もなく読める。

アカーキー・アカーキエヴィチはまるで冴えない九等官の貧乏役人。仕事といえば浄書以外には何もできず、周囲からはいつもばかにされている。そんな彼だが、ある日一念発起、爪に火をともす節約生活の末、ついに外套を新調することに成功する。るんるん気分で出かけるも、なんと新調したその晩に追い剥ぎにあい、外套は奪われてしまう。警察に届けを出し、役人にも手を回してもらうよう嘆願するが、まるで相手にしてもらえないばかりか、なぜか逆に一喝されてしまう始末。アカーキーはショックのあまり発熱し、命を落としてしまうのだった。その後、街路には幽霊が出没、道行く人の外套を剥ぎ取るようになったのだという…!

プロットからすれば、じゅうぶん悲劇としてやっていけそうな物語であるにも関わらず、ゴーゴリは本作を滑稽譚として、ほとんどギャグみたいなものとして描いているように見える。なにしろ、登場人物が全員冴えない。まともな人物、小説の主人公たりえそうな人物がひとりもあらわれないのだ。極端な貧しさとしょぼさが主人公の資格にアカーキーを近づけてはいるけれど、彼が、『貧しき人びと』のマカールのようによくもわるくも心を揺さぶるような激しい独白をすることはない。彼はなにしろ清書だけやっていれば幸せ、もうそれだけで満足です、って人物なのであって、自分の貧しさや他人の視線なんかをいちいち憂いたり嘆いたりすることはないのだ。

どれだけ上司や長官が代わろうが、この男の居場所もポストも職務もかわらず、いつも筆耕のままなので、やがて人は、どうやらこの男、すっかりこのままの姿で、つまり文官の制服を着て、おでこに禿を作ってこの世に生まれてきたにちがいないと思い込んだとしても不思議はない。
役所でもこの男、歯牙にもかけられない。やっこさんが前を通り過ぎても守衛は腰もあげないばかりか、まるでただの蝿が玄関口をひょいと飛んでったくらいのもんで、目もくれようとしない。上司のあつかいときたら、愛想もへったくれもない。局長の補佐官などは、いきなりやつの鼻先にむんずと書類を突き出すばかりで、「清書したまえ」とも、「なかなかおもしろい仕事だぞ」とも言うわけでもない。礼儀正しい職場なら言うはずのやさしい言葉ひとつかけるでもない。やっこさんはといえば、こちらもちらと書類に目を走らせるだけで、誰が仕事を持ってきたのか、そんな権限があるのかすら斟酌する風もない。受け取るとすぐさま清書に取りかかるんであります。(p.73,74)

いや、この男、愛情を持って勤めにはげんでおりました。浄書をしているだけで、この男には自分なりの、なんというか、いろんな愉しい世界が開けてくる。法悦のさまがその顔にうかんでまいります。この男にはお気に入りの文字がいくつかありまして、その文字に近づいてくると、男はもう気もそぞろ、にたにたして、目をぱちくりしはじめる。そこに唇までが加勢するもんですから、男のペンが書きつける文字がその顔色から読めちまう。(p.75,76)

もちろん、本作でも貧しい人々や社会的不公正といったものがモチーフとして大きく取り扱われてはいるのだけれど、それらに対する目線はひたすらにドライ。そのニュアンスは到底”同情的”であるようには見えず、がんばってもせいぜい”風刺的”といったところ。全体的に、ゴーゴリの描写は非常に即物的なのだ。

そういうわけで、「外套」は、悲劇を悲劇たらしめる要素、悲劇性というやつが致命的に奪われてしまった物語であり、それだからこそのインパクトを持っている、ということができるだろう。この物語のエンディングには、メロドラマ性も、思想の激突も、悲しみの果てにある慟哭もない。あるのはただ、外套を奪いまくる幽霊の出現とその消滅、っていう、そんな地味過ぎるできごとの記録だけなのだ。

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