『貧しき人びと』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(その1)

『貧しき人々』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

ドストエフスキー、24歳のときのデビュー作。作品のボリューム的には、まあ中編といったところだろうか。主人公のマカール・ジェーヴシキンはペテルブルクのぼろアパートに暮らす、貧しい中年の小役人。同じアパートの向かいの棟には、お針子をして糊口をしのいでいる、天涯孤独で病弱な若い娘、ワルワーラが住んでいる。無学で小心、善良で、貧乏をなめつくしている彼らは、お互いの境遇を気にかけながら苦しい生活を続けていたのだったが、ある日突然、ワルワーラと地主貴族との縁談が持ち上がる。マカールの懇願にも関わらず、ワルワーラは縁談を受け入れ、彼のもとを離れていくのだった…!

作品は全編にわたって、マカールとワルワーラの手紙のやり取りのみで構成されている。いわゆる書簡体小説というやつだ。この形式の作品の例にもれず、本作も大枠としては、”手紙を通して男女の感情の機微を描いた作品”だと言っていいだろう。「手紙に書かれていることだけだが読者に知らされること」という構造を利用して、肝心な出来事を省略したり、主人公たちの感情の揺れ動きの原因をあえて明言しないことで読者の興味をひいたり、ということができるのがこの手法の大きな特徴だけれど、そこはドストエフスキー、手紙に込められた熱量がいちいち半端じゃないし、主人公たちの心理状態はなかなかに複雑、単なる書簡体小説の枠組みに収まりきらないような、多層性を持った作品に仕上げてきている。

マカールは、他人の噂や嘲笑的な視線をやたらと気にする、ほとんど被害妄想的な性格の持ち主だが、その原因は、彼の貧しさに由来する劣等感や羞恥心にあると言っていい。現実世界の自分にまるで自信が持てず、他人を恐れてばかりいる彼が唯一熱中するのが、ワルワーラという想い人への手紙なのだ。

ああ、ワーレンカ、ワーレンカ!今度こそ罪があるのはきみのほうですよ、きみはきっと良心の呵責を受けるでしょう。きみのお手紙でわたしはすっかり理性をかき乱され、当惑してしまいました。でも、今ようやく暇ができたので、わが心のなかを顧みて、自分のほうが正しかったのだ、絶対に正しかったのだと悟ったのです。わたしは自分のやったふしだらなことをいっているんじゃありません(あんなことは、あんなことは問題じゃありませんよ!)。わたしがいいたいのは自分がきみを愛したということなんです。しかも、きみを愛することがわたしにとっては少しも無分別なことではなかった、決して無分別なことではなかったということです。きみはなんにもご存知ないんです。(p.140,141)

ワルワーラさん!わたしの可愛い人!わたしは破滅しました、わたしたちは二人とも破滅しました。二人一緒に、もう取り返しのつかないまでに破滅したんです。わたしの評判も、名誉も、なにもかもだめになってしまいました!わたしは破滅しました。きみも破滅しました。きみもわたしと一緒に、もう取り返しのつかないまでに破滅してしまったんです!それはわたしのせいです、わたしがきみを破滅に導いたのです!わたしは追い立てられ、軽蔑され、笑いぐさにされています。女主人さんはもう頭ごなしにがみがみと怒鳴りつけるようになりました。きょうも一日じゅうわたしのことをさんざん怒鳴りちらして、鉋屑ほどの値打ちもないように、こきおろす始末です。晩にはラタジャーエフのところで、誰やらがきみあてのわたしの手紙の下書きを声高々に読みあげました。それはわたしが書きあげたものを、うっかりポケットから落した代物です。みんながよってたかってそれは冷やかしました!わたしたちのことをさんざんはやしたて、笑いころげました、あの裏切り者どもめ!(p.175)

こんなところなんて、もうテンションがすごいことになっている。マカールは、外面的には貧相で誰にも注目されることのない、まったくの日陰者、持たざる者なわけだけれど、その内面はこんなにも繊細で偏執的、激しい自尊心や承認欲求が渦を巻く、きわめて興味深いものになっているのだ。

そんなクレイジーなマカールの発話について、ミハイル・バフチンは、以下のように述べている。

ドストエフスキーはその処女作において、彼の全創作にとってきわめて特徴的な発話の文体、すなわち他者の言葉を先取りしようという緊張した意識によって規定された発話の文体を作り上げようとしている。処女作以降の創作におけるこの文体の意義は、実に巨大なものである。主人公たちのきわめて重要な告白的自己言表には、自分についての他者の言葉、自分についての自分の言葉への他者の反応が先取りされ、それに対するきわめて緊張した姿勢が染みわたっているからである。/『貧しき人々』では、こうした文体の<<卑屈な>>バリエーション、つまり、びくついておずおずとあたりを気遣い、挑戦心を胸の内に押し殺しながら、痙攣に身をよじらせているような言葉の錬成が、すでに始まっているのである。(『ドストエフスキーの詩学』/ミハイル・バフチン ちくま学芸文庫 p.416)

その本質とは、意識と言葉のあらゆる要素内における二つの意識、二つの視点、二つの価値観の交錯と切断であり、いわば原子のレベルにまで至る二つの声の遮り合いなのである。(『ドストエフスキーの詩学』/ミハイル・バフチン ちくま学芸文庫 p.428)

さすがバフチン、すばらしくエレガントでわかりやすいまとめ方だ。マカールの内に表現されている「びくついておずおずとあたりを気遣い、挑戦心を胸の内に押し殺しながら、痙攣に身をよじらせているような言葉」や、「二つの声の遮り合い」こそが、本作の中心で摩擦熱を発し、全体をドライブしているものだと言うことができるだろう。

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