「マーリオと魔術師」/トーマス・マン

「トーニオ・クレーガー」/トーマス・マン

1920年代、ファシズムの支配下にあったイタリアを舞台とした中編。ドイツ人の語り手一家はイタリアに休暇に出かけるが、どうにも居心地がよくない。街全体に妙な空気の滞留があり、リラックスできないのだ。そんなある夜、彼らはチポッラという魔術師のショーを見に出かけることにする。チポッラは不気味なルックスとよく回る舌、そしてある種の催眠術を用いて、たくみに観客の意思や感情を操っていく。人を小馬鹿にしたような尊大な態度のチポッラに対し、はじめこそ反発心を抱いていた観客たちだったけれど、次第に彼の手腕に心奪われ、彼の命令に従って動くことに喜びをすら見出すようになっていく。そんななか、町のレストランのウェイター、マーリオが舞台に呼び出されるのだが…!

ファシズム批判の書として、出版当初はイタリアで発禁となったという本作だけれど、チポッラの弁舌によって観客たちが少しずつ己の意思を放棄していくようすはかなり迫力がある。もちろん、なかには必死の抵抗を試みようとする人もいるのだけれど、チポッラのやり口は、観客ひとりひとりをどこか侮辱するような、相手の触れられたくないところを巧妙なかたちで突くようなところがあって、何だかひどく抵抗しがたいところがあるのだ。そして、気がついたときには、会場じゅうがチポッラの発する負のグルーヴに飲み込まれていってしまっている。

わたしの術で、あなた方を踊らせてみせましょう、というチポッラに、「私には踊る気がまったくないが」と悲壮な抵抗を試みた男性を描写した後に、語り手はこのように述べる。

この人が敗れたのは、闘争の姿勢が消極的なこと、つまり何かを「しようとしない」という方向だったからではないだろうか。何かを「しようとしない」といのでは、人間は気持ちの上で生きていかれないのだろう。つまり、生きるとは、何かを「しようとする」ことなのだ。何かを「しようとしない」ことと、もう自分からは何もしようとしない、つまり命じられた通りにすることとの間には、紙一重の差しかないのだ。その結果、自由という理念は行き場がなくなる。(p.210,211)

何かを「しようとしない」態度で闘争に打ち勝つことはできない、というわけだ。この作品の書かれた後に、ドイツでファシズムが蔓延することになるのはなんとも皮肉なことだけれど、たしかにここでのマンの指摘にはかんがえさせられるものがある。自由でありたければ、何かを「しようとしない」自由などというものに肩入れすべきではない。そうではなく、何かを「しようとする」べきだというわけだ。…このタイミングだと、なんだか、選挙なんかのことをおもい浮かべてしまったりもするね…。

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