『かもめ』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

『かもめ』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

作家志望の青年トレープレフは、湖のほとりにある叔父の土地で暮らしている。そこに、名の知れた女優である母アルカージナが、愛人の売れっ子作家トリゴーリンを連れてやってくる。トレープレフは想い人ニーナを主演女優に、前衛的な劇を皆の前で上演してみせるが、母親たちの理解を得られず、笑いものにされ、ついには怒りのあまり劇を中断してしまう。

ニーナは著名な芸術家であるトリゴーリンに憧れを抱き、ふたりは接近していく。ニーナが離れていってしまったこと、自らの作品が受け入れられなかったことに絶望したトレープレフは、ピストル自殺を図る。

それから2年の時が流れ、作家としてなんとか独り立ちしつつあるトレープレフのもとに、ニーナが姿を現す。トリゴーリンに捨てられ、女優としての成功もおぼつかず、不安定な様子を見せるニーナだったが、トレープレフへの語りのなかで、芝居を続けていく決意と、トリゴーリンへの愛を口にする。その夜、トレープレフは再びピストル自殺を図り、今度は成功する…。

 *

ニーナとトレープレフの立場というのは、物語の開始時点ではほぼ同等のものだと言っていいだろう。彼らはふたりとも、何も持っておらず、ただ淡い希望だけを胸に、あいまいな夢を見ている若者にしか過ぎない。そんなところに、トレープレフにとっての乗り越えるべき壁としてトリゴーリンが現れ、状況が変化していくことになるわけだ。

すでに成功している作家であり、そしてニーナの愛情を勝ち得た者であるという意味で、トレープレフにとってトリゴーリンは対峙を余儀なくされる存在である。(ついでに言うと、トリゴーリンは、母アルカージナに一人前の男として認められている人物でもある。もちろん、トレープレフはそうではない。)だから、トレープレフはトリゴーリンに敵愾心を燃やし、嫉妬し、己の実力のなさに苦しみ続けることになる。作家であるトリゴーリンによってニーナを奪われることで、トレープレフのなかでは、作品の失敗が愛情の喪失と、作品の成功が愛情の獲得と、分かちがたく結びついてしまう。彼は、その間違った構図のなかでのたうち回ることしかできなくなってしまうのだ。

しかし、第四幕に至って、ほとんど不意に、彼が本当に求めるべきだったのは、「魂のなかから自由に流れだすように書く」ことだったのではないか、ということが明らかになる。既存の権威や他の作家を打ち倒すための「新しい形式」の探求などではなく、ただ、己の「魂」のなかから書くということ、それこそが彼のやるべきことだったのではないか、と。そんなひらめきに対して、そうかようやく俺のやるべきことがはっきりしたぞ、とポジティブに反応できればよかったのだけれど、もはやトレープレフにはそんな風にはかんがえられない。自分はすでにあまりにも多くの時間を無駄にしてしまった、すべては失われてしまった、手遅れでしかない…おそらくはそんな風に絶望し、自ら生命を絶つことになるわけだ。

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ニーナの場合はどうだろうか。ニーナはトリゴーリンに捨てられ、女優としても失敗している。(第四幕では、田舎回りの女優となって、くたびれ果てている。)気持ち的にも不安定で、はっきり言ってトレープレフと同じくらいぼろぼろに見える。愛する相手に捨てられていること、自分の作品が思うようにうまくできないこと、いっけん、彼らの状況は非常によく似ている。

だが、彼女は物語最後の長い独白――トレープレフの目の前で彼に対して語ってはいるが、ほとんど独白のようにしか聞こえない――のなかで、これに耐えていかなければ、と口にすることができるようになる。

わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか栄光とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心が行ったの。おのれの十字架を負うすべを知り、ただ信ぜよ――だわ。わたしは信じているから、そう辛いこともないし、自分の使命を思うと、人生もこわくないわ。(p.120,121)

トレープレフは、自分の使命がわからない、どうしたらいいのかわからない、もう手遅れでしかない、と言い続けているのに、この違いはどこから来るのか?ニーナだって、第三幕と第四幕の間の2年間のうちに、自殺していてもおかしくないではないか?ふたりを異なる結末へと導いていったものとは、いったい何なのか??

 ***

…それはおそらく、自らの運命を受け入れる覚悟、のようなものなのではないか。ニーナは、かつて前衛劇を演じた手作りの劇場がぼろぼろになってなお湖のほとりに残っているのを見たときに、2年振りに泣いて、胸が軽くなって、心の霧が晴れた、と言う。それは、かつて無邪気に抱いていた夢が、無様に失敗したということを確認する作業であり、自らの程度、自らの現実を受け入れるということでもあったのではないか。

わたしは――かもめ。……いいえ、そうじゃない。わたしは…女優。(p.119)

そう述べるニーナは、「かもめ」――ふとやってきた男によって、退屈まぎれに破滅させられてしまう娘。「ほんの短編の題材」のような――であることを飲み込み、そういった自分の立場をはっきりと認識した上で、それでも「女優」たろうとする。「かもめ」である自分自身を受け入れ、惨めでも、成功とはかけ離れていても、それでもなお一歩ずつ進んでいこう、進んでいくしかない…という信念の、これは宣言なのだ。

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「わたしは楽しく、喜び勇んで役を演じて、舞台に出ると酔ったみたいになって、自分はすばらしいと感じるの。」と語るニーナのように、書くことで、魂のなかから書くことで――物語序盤で、奇しくもトリゴーリンが述べていたように、「書きたいことを、書けるように書く」ことのなかで、つまり、ただできること、やるべきことをやる、ということのなかで――たしかな喜びを見出すことができたのならば、トレープレフは、己の運命を受け入れ、まだ生き続けることができたのではないか。ただ書くためだけに書くことができていれば、彼が死に至ることはなかったのではないか。俺はそんな風に感じたけれど、でも、その辛い道を改めて選択しようとするには、すでにあまりにも深く決定的に、彼は傷ついてしまっていたのかもしれない、ともおもう。


『三人姉妹』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

『三人姉妹』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

舞台はとある地方都市。没落貴族の三人姉妹、オーリガ、マーシャ、イリーナは、いつか故郷のモスクワに帰ることを夢見ながら、淡々と日常を送っている。彼女らの家には、街に駐屯中の旅団の将校たちが何人も出入りしている。日々は静かだが、それでも時間の流れとともに、ものごとは少しずつ変わっていく。彼女らの兄弟、アンドレイは弱気な娘のナターシャと結婚する。マーシャは妻子持ちの中佐、ヴェルシーニンと恋に落ちる。イリーナはトゥーゼンバフ男爵と婚約し、新しい生活を始めようと誓う。

旅団が街を去る日、トゥーゼンバフは恋敵のソリョーヌイと決闘し、命を落とす。三人姉妹は、夢見たものが目の前で次々と形を失い、手を離れていくのを見つめながらも、これからも何とか生きていかなくてはならない、と互いに寄り添って立つ…。

『桜の園』で競売の場面が描かれないのと同様に、『三人姉妹』においても、ドラマを推進していく事件そのものが舞台上で描かれることはほとんどない。第三幕の火事や、第四幕のトゥーゼンバフの死は、あくまでも背景に位置するもので、人物たちはその状況に対して何らの対応策を講じることもできないのだ。また、物語の時間経過に従って、アンドレイと結婚したナターシャが次第に家庭内で専制的にふるまうようになっていく様が不気味に描き出されるけれど、これもまた、アンドレイを含めた主人公たちにとって、自らの力ではどうにも対処しようのない、とにかくどんどん悪くなっていく状況、というものとして扱われている。

『桜の園』のラネーフスカヤたちは、自分たちを待ち受ける運命に対して諦めを感じ、あえて何もしない道を選んでいるようにも見えたけれど、本作の主人公たちは、はっきりとはわからない何か大きな流れに対し、抗う術を知らず、ただただ押し流されていくことしかできないでいるようだ。背景で何が起こっているのか知ることのできない彼らは、自分たちを取り巻く状況に対して、こんな風に言葉を発することしかできないのだ。

マーシャ わたし、こう思うの――人間は信念がなくてはいけない、少なくも信念を求めなければいけない、でないと生活が空虚になる、空っぽになる、とね。……こうして生きていながら、何を目あてに鶴が飛ぶのか、なんのために子供は生まれるのか、どうして星は空にあるのか――ということを知らないなんて。……なんのために生きるのか、それを知ること、――さもないと、何もかもくだらない、根なし草になってしまうわ。(p.187)

イリーナ あたしはもう二十四で、働きに出てからだいぶになるわ。おかげで、脳みそがカサカサになって、痩せるし、器量は落ちるし、老けてしまうし、それでいてなんにも、何ひとつ、心の満足というものがないの。時はどんどんたってゆく、そしてますます、ほんとうの美しい生活から、離れて行くような気がする。だんだん離れて行って、何か深い淵へでも沈んで行くような気がする。あたしはもう絶望だ。どうしてまだ生きているのか、どうして自殺しなかったのか、われながらわからない……(p.230)

トゥーゼンバフ じつにくだらない、じつに馬鹿げた些事が、ふとしたはずみで、われわれの生活に重大な意義を帯びてくるようなことが、時にはありますね。相変わらずくだらん事だと高をくくって、笑いとばしているうちに、ずるずる引きずられて、もう踏みとどまる力が自分にはない、と思った時はすでにおそい。(p.257)

アンドレイ ああ、一体どこなんだ。どこへ行ってしまったんだ、おれの過去は?おれが若くて、快活で、頭がよかったあの頃は?おれが美しい空想や思索にふけったあの頃、おれの現在と未来が希望にかがやいていたあの時代は、どこへ行ったのだ?なぜわれわれは、生活を始めるか始めないうちに、もう退屈で灰色な、つまらない、無精で無関心な、無益で不仕合せな人間に、なってしまうのだろう。(p.258,259)

物語の背景にあるのは、不穏に動いていく時代の流れなのだが、彼らはそれをはっきりと見定めることができないでいる。ある者はそれに気づきもしないし、ある者は、あえて目をそらし、見なかったふりをする。そしてまたある者は、その流れの強さに圧倒され、ただ立ち尽くすことしかできない。だから、彼らの運命は悲劇的であるのに、そのふるまいは喜劇的なものになってしまうのだ。

そういう意味で、本作は三人姉妹の内面を描いたメランコリックなドラマであるのと同時に、現在というものを目隠しをつけたまま通り過ぎて行くことしかできない人間――自分の周囲や背景で何が起こっているのかは、いつだって事後的にしかわからない――というものへの乾いたまなざしを内包した物語であるということができるだろう。とどまることのない時の流れのなかで人間にできるのは、せいぜい、「たがいに寄り添って立つ」ことくらいなのだ。


『桜の園』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

『桜の園』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

没落貴族のラネーフスカヤ夫人が、娘のアーニャと共に、5年ぶりに「桜の園」へと帰ってくるところから物語は始まる。6年前に夫と小さな息子を立て続けに亡くした夫人は、失意の内にパリへと逃亡、愛人のもとで暮らしていたのだ。ひさびさに帰還する領主を「桜の園」の人々は暖かく出迎えるが、彼らがそこで過ごすことのできる時間はほとんど残されてはいなかった。「桜の園」は借金のカタに競売にかけられることになっていたのだ。やれ困ったことだ、いったいどうしたものか、まったく昔はよかったよ…などと皆で語らい合っているうちに時は過ぎ、いよいよ競売の日が訪れる…!

本作でまずおもしろいのは、誰も本気で「桜の園」を守りたい、とはおもっていなさそうなところだ。いや、正確には、「桜の園」を守るための具体的な行動を誰ひとり取ろうとしない、というところだ。ラネーフスカヤも、その兄ガーエフも、娘のワーニカとアーニャも、それぞれにいろいろな気持ちを抱えてはいるものの、その気持ちをどうにかするための何の行動も起こそうとはしないのだ。

だから、全編に渡って描かれていくのは、彼らの無為なおしゃべりやだらだらした日常の様子、ということになる。ガーエフは本棚の前で昔日を偲んで演説をぶち、トロフィーモフはアーニャに向かって明るく光り輝く未来予想図を語ってみせる。ラネーフスカヤは借金を抱えていながら派手な金遣いを改めるでもないし、古くから「桜の園」を仕切ってきた老従僕のフィールスは、ボケが進んでギャグ担当のようになってしまっている。彼らの思い出語りや思いつきのアイデア、うわさ話や空想や思想などなど、空虚な言葉たちが舞台上を数多く飛び交っていくことになるわけだけれど、肝心要のことには誰も手をつけようとしないのだ。

そうして、「桜の園」は、ただひとりこの状況に対してアクティブに動いた人物、新興商人のロパーヒンによって買い取られることになる。ラネーフスカヤたちが「桜の園」を去るエンディングは、ひとつの時代の黄昏を象徴的に描いているとも言えるだろうし――ロパーヒンは、先祖代々農民の家系だったが、農奴解放によって新たな階級として不意に現出した人物である――、もはや状況をどうにかしようという気力やモチベーションを失ってしまった人々は、ただただ流されるに任せてこれからも生きていくのだろう…という未来を予感させるものになってもいる。

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とはいえ、トロフィーモフとアーニャについては、これから新しい時代へと踏み出していく希望に満ちた若い世代である、という読み方もできなくはないだろう。トロフィーモフはアーニャに理想と幸福を力強く語ってみせるのだし、じっさい、俺も高校生の頃に本作を読んだときは、そんな風に感じていたものだった。トロフィーモフのこんな台詞をノートにメモしていたのを覚えている。

もしあなたが、家政の鍵をあずかっているのなら、それを井戸のなかへぶちこんで、出てらっしゃい。そして自由になるんです、風のようにね。(p.72)

ただ、今回読んで感じたのは、彼についてもまた、観念の世界のロマンティックな響きに憧れを抱いてるばかりの愚か者、憂うばかりで何も行動することのないインテリ、という風に読むことができるよな、ということだった。アーニャにしても、そんな彼のことをどこまで本気で信じているのかどうかはっきりとしない(というか、うんうんそうねそうねって、聞き流しているようにも読める)。そんな風にかんがえてみると、作品全体に漂う、薄ら寒い感じがより強化されるような気もする。まあ、昔と比べると、作品のセンチメンタルな側面よりも、メランコリックなイメージの方が強く印象に残った、ということだ。

もっとも、これはどちらが正解というような話でもないだろう。トロフィーモフには、両方の側面――若さゆえ、インテリゆえの未来への希望と、まさにそれゆえの愚かしさ――が与えられれいるのだ。それはたとえば、以下のようなやりとりを見てみるとわかりやすい。

トロフィーモフ 領地が今日売れようと売れまいと――同じことじゃありませんか?あれとはもう、とっくに縁が切れて、今さら元へは戻れません。昔の夢ですよ。気を落ち着けてください、奥さん。いつまでも自分をごまかしていずに、せめて一生に一度でも、真実をまともに見ることです。

ラネーフスカヤ 真実をねえ?そりゃあなたなら、どれが真実でどれがウソか、はっきり見えるでしょうけれど、わたし、なんだか目が霞んでしまったみたいで、何一つ見えないの。あなたはどんな重大な問題でも、勇敢にズバリと決めてしまいなさるけれど、でもどうでしょう、それはまだあなたが若くって、何一つ自分の問題を苦しみ抜いたことがないからじゃないかしら?あなたが勇敢に前のほうばかり見ているのも、元をただせば、まだ本当の人生の姿があなたの若い眼から匿されているので、怖いものなしなんだからじゃないかしら?(p.84,85)

彼らの台詞は、たしかにそれぞれにとっての「真実」を語っているけれど、しかし問題は、言葉によって、自分のおもっているまさにその感じ、というのを丸ごと相手に伝えることは不可能だし、相手のそれを心から理解することも決してできはしない、ということだ。ラネーフスカヤにはそれがわかっているけれど、若いトロフィーモフには、そのような「真実」はまだピンとこない、というわけだ。(自分は「真実」なるものを正しく見定めることができる、というかんがえ自体が、若さゆえに持ち得る希望であり、愚かさでもある。)

そんな「真実」は、虚しく、悲しいものだけれど、でも、そもそもコミュニケーションというものはそんなものである、とチェーホフはかんがえているようだ。だから、こんな風に互いのもとにまで決して届くことのない言葉たちがどこまでも空回りし続けることで、悲喜劇的な舞台の空しさはひたすらに高められていくことになる。エンディングで悲しげに鳴る、弦の切れた音は、そんな物語の最後にいかにもふさわしいと言えるだろう。

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…ただ、俺としては、こういう結論に落ち着いてしまうと、少し不満というか、居心地の悪さを感じることになる。何と言ったらいいか…。

チェーホフは、ラネーフスカヤたちの愚かさや悲しみを、あえて醒めた目で見つめ、悲劇ではなく喜劇として描き出そうとしている。そこから生じるのはメランコリックで乾いた笑いであり、どこへ向かうこともなくただ消えていくしかない、いわく言いがたい情感だ。

ラネーフスカヤたちは、自らの運命に対し、それぞれじつに劇的な言葉を発するけれど、劇的ということはつまり、それらはいずれも通俗的で凡庸な、お定まりの台詞、紋切り型に過ぎないということでもある。おまけに、そんな風に揃って凡俗な彼らであるのに、互いにしっかりと気持ちが噛み合うということだけは決してあり得ず、それぞれの「真実」を胸に抱えたままばらばらに生きていく他ない。人間とは、どこまでも月並みで、情緒に流されやすく、互いに分かり合うことのできない、愚かな存在である、それはなんと悲しく、滑稽で、憂鬱であることか!

…というのが、チェーホフがこの物語に込めた想いだった、ということになるのだろうか?そうであるとすれば、それに対して、どんな感想を述べることができるだろう?うん、それはそうだよね、まったく笑っちゃうよね…としか言いようがないんじゃないか?本当にそれだけでいいのか??…何ていうか、俺はそんな風におもってしまうのだ。


『オネーギン』/アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン

『オネーギン』/アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン

プーシキンの有名な韻文小説。この岩波文庫版では散文として翻訳されているので、ふつうの小説として読むことができるようになっている。あらすじは以下の通り。

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若くして叔父の財産と土地とを引き継いだオネーギンは、社交界の寵児として享楽的な日々を過ごすが、やがてすべてに飽き、無為で退屈な日々を送るようになる。田舎に隠棲した彼は、自分より少し年若い詩人、レンスキイと知り合う。レンスキイはオネーギンの隣家の娘、オリガに夢中で、オネーギンを彼女の屋敷へ連れて行く。オリガの姉のタチヤーナは、突然現れた都会の男、オネーギンを一目見るなり恋に落ちる。小説好きで夢見がちな性格のタチヤーナは、思いの丈を打ち明けた熱烈な恋文を書き、オネーギンに渡すが、オネーギンは自分はあなたに相応しい相手ではない、と彼女を拒絶する。

ある日、オネーギンはふとした気まぐれから、舞踏会でオリガを誘い、レンスキイの目の前で彼女と踊ってみせる。怒りに駆られたレンスキイは、オネーギンに決闘を申し込む。オネーギンは申し出を断ることもできず、レンスキイと決闘し、結果、彼を撃ち殺してしまう。このことで自棄になったオネーギンは、家を離れ、放浪の生活を始める。その後、タチヤーナはオネーギンの家を訪れ、彼が書き込みを残した本を貪り読む。タチヤーナは、ついに彼がどういったかんがえの人物であったかを本当に知るに至る。

数年後、放浪の旅から戻ったオネーギンは、モスクワの舞踏会に顔を出す。と、そこには見違えるように美しく成長したタチヤーナの姿があった。彼女はすでに結婚し、社交界で注目を集めるほどの女性になっていたのだ。オネーギンはとうとう彼女に恋をすることになる。恋文を何度も送りつけ、ついには彼女の家にまで押しかけ、思いの丈をぶちまける。だが、タチヤーナはすでに人妻、私は操を守るつもりなのでお帰り下さい、とオネーギンに告げるのだった…。

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本作の主人公、エヴゲーニイ・オネーギンは、19世紀ロシア文学によく登場する「余計者」の原型、と言われているけれど、その造形はいまでもじゅうぶんに興味深いものだ。知識だけはあるが、それを生かすための興味や活力、指針といったものを持っていないがために、ただただ流されるように生きてしまう…というその姿は、いまでも違和感なく受け入れられる。彼は決していいやつではないけれど(というか、ここまで鼻につくところばかりの主人公というのも、なかなか珍しいだろう)、俺なんかはそのだめだめな姿に共感してしまったりもする。

物語の最終章で、そんなオネーギンがタチヤーナに詰め寄り、冷静になりなさいと諭されるシーン、ここで交わされるやりとりは、何とも格好悪くも、リアリティに満ちたものだ。何事に対しても関心が持てず、何をしていても満たされず、ただただ無為な生活を送っていた男、決闘を持ちかけられても、それを回避する術をかんがえることすらせず、ただ流れに任せて友人を殺してしまった男、まだまだ若いのに、すっかり老成してしまったかのように見える男であったオネーギンだが、ただ恋に落ちてしまうことで、それら「余計者」的な性質が一掃され、みじめで情けない、喪失感でいっぱいの「女のいない男たち」の一員になってしまった、というわけだ。

誰にとっても無縁であり、何一つ束縛を受けなかった僕は、こう考えたのです。――自由と安らぎは幸福に代り得る、と。ああ、何という間違いだったでしょう、どんな罰を受けたことでしょう!(p.171)

「女のいない男たち」にとって、自由や安らぎは幸福のための助けにはならない。彼の空虚を埋めることができるのは、彼の求める女だけなのだ。かつては無感動な「余計者」であったオネーギンも、ここではその洗練も無気力も鬱屈も、すべて投げ出し、「感情の奴隷」としてただ懇願することしかできないのだ。

とはいえ、この場面に至っても、タチヤーナのオネーギンへの想いが完全に失われてしまっているわけではない。なにしろ、彼女は、オネーギンへの愛をはっきりと口にしてさえみせるのである。そういう意味では、これはオネーギンとタチヤーナ、ふたりの想いがすれ違う、それぞれにとっての人生の悲劇の物語ということもできるだろう。彼らのどちらにとっても、相手に対して抱いたその感情が、自らの人生のなかで最も激しく強大な吸引力を持っていたがゆえに、その感情が発生したまさにその瞬間に、相手にそれを伝えずにはいられなかったのだ。たとえそのタイミングがまったく適切なものではなかったとしても、たとえそれが自らの幸福の助けにはならないとわかっていたとしても。


『ひとさらい』/ジュール・シュペルヴィエル

『ひとさらい』/ジュール・シュペルヴィエル

シュペルヴィエルの長編。以前に読んだ『海に住む少女』が完璧に素晴らしい作品だったので、それと比べてしまうとやはりどうしても落ちる、という印象はあった。でも、これはこれでなかなかおもしろい小説だ。

物語の主人公は、ビグア大佐という男。父性溢れる人物で、あちこちから身寄りのない/不幸な子供をさらってきては自分の家に住まわせ、自分の子供として大切に育てようとする…という変人である。読者がこの男のことを、変わった人だなー、そこまで悪人って感じでもないみたいだけど…などとおもうのと同じように、さらわれてきた子供たちの目にも、大佐はどこか掴みどころのない、出来合いのものさしでは測りがたいような人物として映っている。風変わりで、優しくて、人の道からはちょっと外れていて、そしてとても寂しそうな男。

さて、そんな風に、法の網の目をかいくぐりながらオリジナルな価値観を貫いていた大佐だけれど、マルセルという少女を引き取ってからというもの、自分のありようにまるで自信が持てなくなってしまう。まあ早い話、彼女に恋してしまうわけだ。ティーンの「娘」に恋してしまった大佐の心の内では、父性と愛欲、怯えと怒り、プライドと欲望とがごちゃごちゃに混ざり合い、どこにも行き場を見つけることができないまま、ものすごい早さで肥大化していくことになる。(そして、マルセルの方はというと、そんな大佐のようすを興味深げに見つめている。)

自分でも意識していないだろう大佐のちょっとした態度から、マルセルは大佐が自分に関心があることを感じ取っていた。なにしろ、大佐は気がつくと、彼女の手や、靴ひもの結び目や、帽子のてっぺんをじっと見つめているのだ。マルセルのほうはといえば、しばらく前から、大佐のまぶたにキスしたいと思っていた。それだけは確かだった。だって、あのまぶたの裏には、今までに見たなかで、いちばん真っ黒な瞳、誰よりも多くのものを抱え込んだ瞳が隠れているのだ。
マルセルにとって大佐は、母の家にはなかったものすべてだった。贅沢な暮らし、心遣い、そして異国情緒。マルセルは大佐をじっと見つめていた。まるで、何十キロにわたって葉陰の続く深い森のなかに潜んでいるオランウータンのように、大佐はいつも孤独のただなかにいるのだ。(p.104,105)

そういう意味では、本作も「女のいない男たち」の物語だということができるだろう。大佐には妻がいるけれど(そして彼は彼女のことをそれなりに大切におもってはいるようなのだけれど)、やはり彼は、自らが本当に求めるもの、心の奥底から欲望するものを得ることのできない、「女のいない男たち」のひとりなのだ。だから、そんな彼にとってのこの世界は、もはや自らの力では何の働きかけをすることもできない、痛みに満ちた場所ということになる。

(ビグア大佐が「ひとさらい」をはじめた理由というのは、作中ではぼんやりと示唆されるに留まっているのだけれど、おそらく、「そうしないことには、この世界のなかに自分をうまく位置づけることができなかったから」だということは言えるだろう。既にさまざまなものを失い、あるいは自ら捨て去ってきた後で、彼が自分にふさわしい立ち位置、役割としてようやく設定することにしたのが、「家庭の父親」というロールだったのだけれど、そのポジションを自らの欲望によって失うことになってしまったわけで、そうなると、もはや彼には依って立つところがなくなってしまうのだ。)

物語の最後、ビグア大佐は生への意思を失い、海へと身を投げることになる。シュペルヴィエルは、そんな彼の姿を、「いったい何をやっているんでしょうねえ、この人は?」とでも言いたげないじわるな口ぶりで描き出してみせるけれど、まさにそんな大佐の滑稽さやみじめさによって、作品全体の詩情は確かなものになっている。


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